Aよしや言つたところで採用せられはすまいといふので、傍観してゐることになつた。そのうち或る日見舞に行くと昨夜《ゆうべ》死んだといふことであつた。その男の死顔を見たとき、自分はひどく感動して、自分もいつどんな病に感じて、こんな風に死ぬるかも知れないと、ふと思つた。それからは折々此儘|伯林《ベルリン》で死んだらどうだらうと思ふことがある。
さういふ時は、先づ故郷で待つてゐる二親《ふたおや》がどんなに歎くだらうと思ふ。それから身近い種々の人の事を思ふ。中にも自分にひどく懐《なつ》いてゐた、頭の毛のちぢれた弟の、故郷を立つとき、まだやつと歩いてゐたのが、毎日毎日兄いさんはいつ帰るかと問ふといふことを、手紙で言つてよこされてゐる。その弟が、若《も》し兄いさんはもう帰らないと云はれたら、どんなにか嘆くだらうと思ふ。
それから留学生になつてゐて、学業が成らずに死んでは済まないと思ふ。併《しか》し抽象的にかう云ふ事を考へてゐるうちは、冷かな義務の感じのみであるが、一人一人具体的に自分の値遇《ちぐう》の跡《あと》を尋ねて見ると、矢張身近い親戚のやうに、自分に Neigung《ナイグング》 からの苦痛、情《じやう》の上の感じをさせるやうにもなる。
かういふやうに広狭《くわうけふ》種々の social《ゾチアル》 な繋累的《けいるゐてき》思想が、次第もなく簇《むら》がり起つて来るが、それがとうとう individuell《インヂヰヅエル》 な自我《じが》の上に帰着してしまふ。死といふものはあらゆる方角から引つ張つてゐる糸の湊合《そうがふ》してゐる、この自我といふものが無くなつてしまふのだと思ふ。
自分は小さい時から小説が好きなので、外国語を学んでからも、暇があれば外国の小説を読んでゐる。どれを読んで見てもこの自我が無くなるといふことは最も大いなる最も深い苦痛だと云つてある。ところが自分には単に我が無くなるといふこと丈ならば、苦痛とは思はれない。只刃物で死んだら、其|刹那《せつな》に肉体の痛みを覚えるだらうと思ひ、病や薬で死んだら、それぞれの病症|薬性《やくせい》に相応して、窒息するとか痙攣《けいれん》するとかいふ苦みを覚えるだらうと思ふのである。自我が無くなる為めの苦痛は無い。
西洋人は死を恐れないのは野蛮人の性質だと云つてゐる。自分は西洋人の謂《い》ふ野蛮人といふものかも知れないと思ふ。さう思ふと同時に、小さい時|二親《ふたおや》が、侍《さむらひ》の家に生れたのだから、切腹といふことが出来なくてはならないと度々|諭《さと》したことを思ひ出す。その時も肉体の痛みがあるだらうと思つて、其痛みを忍ばなくてはなるまいと思つたことを思ひ出す。そしていよいよ所謂《いはゆる》野蛮人かも知れないと思ふ。併しその西洋人の見解が尤もだと承服することは出来ない。
そんなら自我が無くなるといふことに就いて、平気でゐるかといふに、さうではない。その自我といふものが有る間に、それをどんな物だとはつきり考へても見ずに、知らずに、それを無くしてしまふのが口惜しい。残念である。漢学者の謂《い》ふ酔生夢死《すゐせいむし》といふやうな生涯を送つてしまふのが残念である。それを口惜しい、残念だと思ふと同時に、痛切に心の空虚を感ずる。なんともかとも言はれない寂しさを覚える。
それが煩悶になる。それが苦痛になる。
自分は伯林《ベルリン》の 〔garc,on〕《ガルソン》 logis《ロジイ》 の寐られない夜なかに、幾度も此苦痛を嘗《な》めた。さういふ時は自分の生れてから今までした事が、上辺《うはべ》の徒《いたづ》ら事《ごと》のやうに思はれる。舞台の上の役を勤めてゐるに過ぎなかつたといふことが、切実に感ぜられる。さういふ時にこれまで人に聞いたり本で読んだりした仏教や基督教《キリストけう》の思想の断片が、次第もなく心に浮んで来ては、直ぐに消えてしまふ。なんの慰藉《ゐしや》をも与へずに消えてしまふ。さういふ時にこれまで学んだ自然科学のあらゆる事実やあらゆる推理を繰り返して見て、どこかに慰藉になるやうな物はないかと捜《さが》す。併しこれも徒労であつた。
或るかういふ夜の事であつた。哲学の本を読んで見ようと思ひ立つて、夜の明けるのを待ち兼ねて、Hartmann《ハルトマン》 の無意識哲学を買ひに行つた。これが哲学といふものを覗いて見た初で、なぜハルトマンにしたかといふと、その頃十九世紀は鉄道とハルトマンの哲学とを齎《もたら》したと云つた位、最新の大系統として賛否《さんぴ》の声が喧《かまびす》しかつたからである。
自分に哲学の難有《ありがた》みを感ぜさせたのは錯迷《さくめい》の三期であつた。ハルトマンは幸福を人生の目的だとすることの不可能なのを証する為めに、錯迷の三期を立ててゐる。第
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