へ》ぎ悶《もだ》えてゐたのである。劇場では Ernst《エルンスト》 von《フオン》 Wildenbruch《ヰルデンブルツホ》 が、あの Hohenzollern《ホオヘンツオルレルン》 家の祖先を主人公にした脚本を興業させて、学生仲間の青年の心を支配してゐた。
昼は講堂や Laboratorium《ラボラトリウム》 で、生き生きした青年の間に立ち交つて働く。何事にも不器用で、癡重《ちちよう》といふやうな処のある欧羅巴《ヨオロツパ》人を凌《しの》いで[#「凌《しの》いで」は底本では「凌《しのい》いで」]、軽捷《けいせふ》に立ち働いて得意がるやうな心も起る。夜は芝居を見る。舞踏場にゆく。それから珈琲店《コオフイイてん》に時刻を移して、帰り道には街燈|丈《だけ》が寂しい光を放つて、馬車を乗り廻す掃除人足が掃除をし始める頃にぶらぶら帰る。素直に帰らないこともある。
さて自分の住む宿に帰り着く。宿と云つても、幾竈《いくかまど》もあるおほ家《いへ》の入口の戸を、邪魔になる大鍵で開けて、三階か四階へ、蝋《らふ》マッチを擦《す》り擦《す》り登つて行つて、やうやう chambre《シヤンブル》 garnie《ガルニイ》 の前に来るのである。
高机一つに椅子二つ三つ。寝台に箪笥《たんす》に化粧棚。その外にはなんにもない。火を点《とも》して着物を脱いで、その火を消すと直ぐ、寝台の上に横になる。
心の寂しさを感ずるのはかういふ時である。それでも神経の平穏な時は故郷の家の様子が俤《おもかげ》に立つて来るに過ぎない。その幻を見ながら寐入る。Nostalgia《ノスタルギア》 は人生の苦痛の余り深いものではない。
それがどうかすると寐附かれない。又起きて火を点して、為事《しごと》をして見る。為事に興が乗つて来れば、余念もなく夜を徹してしまふこともある。明方近く、外に物音がし出してから一寸寐ても、若い時の疲労は直ぐ恢復《くわいふく》することが出来る。
時としてはその為事が手に附かない。神経が異様に興奮して、心が澄み切つてゐるのに、書物を開けて、他人の思想の跡を辿《たど》つて行くのがもどかしくなる。自分の思想が自由行動を取つて来る。自然科学のうちで最も自然科学らしい医学をしてゐて、exact《エクサクト》 な学問といふことを性命《せいめい》にしてゐるのに、なんとなく心の飢を感じて来る。生といふものを考へる。自分のしてゐる事が、その生の内容を充たすに足るかどうだかと思ふ。
生れてから今日まで、自分は何をしてゐるか。始終何物かに策《むち》うたれ駆られてゐるやうに学問といふことに齷齪《あくせく》してゐる。これは自分に或る働きが出来るやうに、自分を為上《しあ》げるのだと思つてゐる。其目的は幾分か達せられるかも知れない。併し自分のしてゐる事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めてゐるに過ぎないやうに感ぜられる。その勤めてゐる役の背後《うしろ》に、別に何物かが存在してゐなくてはならないやうに感ぜられる。策《むち》うたれ駆られてばかりゐる為めに、その何物かが醒覚《せいかく》する暇《ひま》がないやうに感ぜられる。勉強する子供から、勉強する学校生徒、勉強する官吏、勉強する留学生といふのが、皆その役である。赤く黒く塗られてゐる顔をいつか洗つて、一寸舞台から降りて、静かに自分といふものを考へて見たい、背後《うしろ》の何物かの面目を覗《のぞ》いて見たいと思ひ思ひしながら、舞台監督の鞭《むち》を背中に受けて、役から役を勤め続けてゐる。此役が即ち生だとは考へられない。背後《うしろ》にある或る物が真の生ではあるまいかと思はれる。併しその或る物は目を醒《さ》まさう醒《さ》まさうと思ひながら、又してはうとうとして眠つてしまふ。此頃折々切実に感ずる故郷の恋しさなんぞも、浮草が波に揺られて遠い処へ行つて浮いてゐるのに、どうかするとその揺れるのが根に響くやうな感じであるが、これは舞台でしてゐる役の感じではない。併しそんな感じは、一寸頭を挙げるかと思ふと、直ぐに引つ込んでしまふ。
それとは違つて、夜寐られない時、こんな風に舞台で勤めながら生涯を終るのかと思ふことがある。それからその生涯といふものも長いか短いか知れないと思ふ。丁度その頃留学生仲間が一人|窒扶斯《チフス》になつて入院して死んだ。講義のない時間に、〔Charite'〕《シヤリテエ》 へ見舞に行くと、伝染病室の硝子《ガラス》越《ご》しに、寐てゐるところを見せて貰ふのであつた。熱が四十度を超過するので、毎日冷水浴をさせるといふことであつた。そこで自分は医学生だつたので、どうも日本人には冷水浴は危険だと思つて、外のものにも相談して見たが、病院に人れて置きながら、そこの治療|方鍼《はうしん》に容喙《ようかい》するのは不都合であらうし
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