奄唐高n《アフオリスメン》 の旋律が聞えて来た。
 生の意志を挫《くじ》いて無に入らせようとする、ショオペンハウエルの Quietive《クヰエチイフ》 に服従し兼ねてゐた自分の意識は、或時|懶眠《らんみん》の中から鞭《むち》うち起された。
 それは Nietzsche《ニイチエ》 の超人《てうじん》哲学であつた。
 併しこれも自分を養つてくれる食餌ではなくて、自分を酔はせる酒であつた。
 過去の消極的な、利他的な道徳を家畜の群《むれ》の道徳としたのは痛快である。同時に社会主義者の四海同胞観《しかいどうはうくわん》を、あらゆる特権を排斥する、愚な、とんまな群の道徳としたのも、無政府主義者の跋扈《ばつこ》を、欧羅巴《ヨオロツパ》の街に犬が吠えてゐると罵つたのも面白い。併し理性の約束を棄てて、権威に向ふ意志を文化の根本に置いて、門閥《もんばつ》の為め、自我の為めに、毒薬と匕首《ひしゆ》とを用ゐることを憚《はばか》らない Cesare《チエザレ》 Borgia《ボルジア》 を、君主の道徳の典型としたのなんぞを、真面目に受け取るわけには行かない。その上ハルトマンの細かい倫理説を見た目には、所謂《いはゆる》評価の革新さへ幾分の新しみを殺《そ》がれてしまつたのである。
 そこで死はどうであるか。「永遠なる再来」は慰藉《ゐしや》にはならない。Zarathustra《ツアラツストラ》 の末期《まつご》に筆を下《おろ》し兼ねた作者の情を、自分は憐んだ。
 それから後にも Paulsen《パウルゼン》 の流行などと云ふことも閲《けみ》して来たが、自分は一切の折衷主義《せつちゆうしゆぎ》に同情を有せないので、そんな思潮には触れずにしまつた。

       *     *     *

 昔別荘の真似事に立てた、膝を容《い》れるばかりの小家《こいへ》には、仏者《ぶつしや》の百一物《ひやくいちもつ》のやうになんの道具も只一つしか無い。
 それに主人の翁《おきな》は壁といふ壁を皆棚にして、棚といふ棚を皆書物にしてゐる。
 そして世間と一切の交通を絶つてゐるらしい主人の許《もと》に、西洋から書物の小包が来る。彼が生きてゐる間は、小さいながら財産の全部を保菅してゐる Notar《ノタアル》 の手で、利足《りそく》の大部分が西洋の某|書肆《しよし》へ送られるのである。
 主人は老いても黒人種《こくじんしゆ》のやうな視力を持つてゐて、世間の人が懐かしくなつた故人《こじん》を訪ふやうに、古い本を読む。世間の人が市《いち》に出て、新しい人を見るやうに新しい本を読む。
 倦《う》めば砂の山を歩いて松の木立を見る。砂の浜に下りて海の波瀾《はらん》を見る。
 僕《ぼく》八十八《やそはち》の薦《すす》める野菜の膳に向つて、飢を凌《しの》ぐ。
 書物の外で、主人の翁の翫《もてあそ》んでゐるのは、小さい Loupe《ルウペ》 である。砂の山から摘んで来た小さい草の花などを見る。その外 Zeiss《ツアイス》 の顕微鏡がある。海の雫《しづく》の中にゐる小さい動物などを見る Merz《メルツ》 の望遠鏡がある。晴れた夜の空の星を見る。これは翁が自然科学の記憶を呼び返す、折々のすさびである。
 主人の翁はこの小家に来てからも幻影を追ふやうな昔の心持を無くしてしまふことは出来ない。そして既往《きわう》を回顧してこんな事を思ふ。日《ひ》の要求に安んぜない権利を持つてゐるものは、恐らくは只天才ばかりであらう。自然科学で大発明をするとか、哲学や芸術で大きい思想、大きい作品を生み出すとか云ふ境地に立つたら、自分も現在に満足したのではあるまいか。自分にはそれが出来なかつた。それでかう云ふ心持が附き纏《まと》つてゐるのだらうと思ふのである。
 少壮時代に心の田地《でんぢ》に卸された種子は、容易に根を断つことの出来ないものである。冷眼《れいがん》に哲学や文学の上の動揺を見てゐる主人の翁は、同時に重い石を一つ一つ積み畳《かさ》ねて行くやうな科学者の労作にも、余所《よそ》ながら目を附けてゐるのである。
 Revue《ルヰユウ》 des《デ》 Deux《ドユウ》 Mondes《モオンド》 の主筆をしてゐた旧教徒 〔Brunetie're〕《ブリユンチエエル》 が、科学の破産を説いてから、幾多の歳月を閲《けみ》しても、科学はなかなか破産しない。凡《すべ》ての人為《じんゐ》のものの無常の中で、最も大きい未来を有してゐるものの一つは、矢張科学であらう。
 主人の翁《おきな》はそこで又こんな事を思ふ。人間の大厄難になつてゐる病《やまひ》は、科学の力で予防もし治療もすることが出来る様になつて来た。種痘で疱瘡《はうさう》を防ぐ。人工で培養《ばいやう》した細菌やそれを種《う》ゑた動物の血清《けつせい》で、窒扶斯《チフ
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