謎は解けないと知つて、解かうとしてあせらないやうにはなつたが、自分はそれを打ち棄てて顧みずにはゐられない。宴会嫌ひで世に謂《い》ふ道楽といふものがなく、碁も打たず、象棋《しやうぎ》も差さず、球《たま》も撞《つ》かない自分は、自然科学の為事場《しごとば》を出て、手に試験管を持たなくなつてから、稀《まれ》に画や彫刻を見たり、音楽を聴いたりする外には、境遇の与へる日《ひ》の要求を果した間々に、本を読むことを余儀なくせられた。
 ハルトマンは人間のあらゆる福《さいはひ》を錯迷《さくめい》として打破して行く間に、こんな意味の事を言つてゐた。大抵人の福《さいはひ》と思つてゐる物に、酒の二日酔をさせるやうに跡腹《あとばら》の病《や》めないものは無い。それの無いのは、只芸術と学問との二つ丈だと云ふのである。自分は丁度此二つの外にはする事がなくなつた。それは利害上に打算して、跡腹の病めない事をするのではない。跡腹の病める、あらゆる福《さいはひ》を生得《しやうとく》好かないのである。
 本は随分読んだ。そしてその読む本の種類は、為事場を出てから、必然の結果でがらりと変つた。
 西洋にゐた時から、Archive《アルヒイヱ》 とか Jahresberichte《ヤアレスベヒリテ》 とか云ふやうな、専門の学術雑誌を初巻から揃《そろ》へて十五六種も取つてゐたところが、為事場に出ないことになつて見れば、実験の細《こま》かい記録なんぞを調べる必要がなくなつた。元来かう云ふ雑誌は学校や図書館で買ふもので、個人の買ふものではなかつたのを、政府がどれ丈雑誌に金を出してくれるやら分からないと思ふのと、自分がどこで為事をするやうになるやら分からないと思ふのとで、数千巻買つて持つてゐたが、自分は其中で専門学科の沿革《えんかく》と進歩とを見るに最も便利な年報二三種を残して置いて、跡は悉《ことごと》く官《くわん》の学校に寄附してしまつた。
 そしてその代りに哲学や文学の書物を買ふことにした。それを時間の得られる限り読んだのである。
 只その読み方が、初めハルトマンを読んだ時のやうに、饑《う》ゑて食を貪《むさぼ》るやうな読み方ではなくなつた。昔《むかし》世にもてはやされてゐた人、今《いま》世にもてはやされてゐる人は、どんな事を言つてゐるかと、譬《たと》へば道を行く人の顔を辻に立つて冷澹《れいたん》に見るやうに見たのである。
 冷澹には見てゐたが、自分は辻に立つてゐて、度々帽を脱いだ。昔の人にも今の人にも、敬意を表すべき人が大勢あつたのである。
 帽は脱いだが、辻を離れてどの人かの跡に附いて行かうとは思はなかつた。多くの師には逢つたが、一人の主《しゆ》には逢はなかつたのである。
 自分は度々此脱帽によつて誤解せられた。自然科学を修《をさ》めて帰つた当座、食物の議論が出たので、当時の権威者たる Voit《フオイト》 の標準で駁撃《はくげき》した時も、或る先輩が「そんならフォイトを信仰してゐるか」と云ふと、自分はそれに答へて、「必ずしもさうでは無い、姑《しばら》くフォイトの塁《るゐ》に拠《よ》つて敵に当るのだ」と云つて、ひどく先輩に冷かされた。自分は一時の権威者としてフォイトに脱帽したに過ぎないのである。それと丁度同じ事で、一頃《ひところ》芸術の批評に口を出して、ハルトマンの美学を根拠にして論じてゐると、或る後進の英雄が云つた。「ハルトマンの美学はハルトマンの無意識哲学から出てゐる。あの美学を根拠にして論ずるには、先づ無意識哲学を信仰してゐなくてはならない」と云つた。なる程ハルトマンは自家の美学を自家の世界観に結び附けてはゐたが、姑《しばら》くその連鎖を断《た》つてしまつたとして見ても、彼の美学は当時最も完備したものであつて、而も創見に富んでゐた。自分は美学の上で、矢張一時の権威者としてハルトマンに脱帽したに過ぎないのである。ずつと後になつてから、ハルトマンの世界観を離れて、彼の美学の存立してゐられる、立派な証拠が提供せられた。ハルトマン以後に出た美学者の本をどれでも開けて見るが好い。きつと美の Modification《モヂフイカチオン》 と云ふものを説いてゐる。あれはハルトマンが剏《はじ》めたのでハルトマンの前には無かつた。それを誰も彼も説いてゐて、ハルトマンのハの字も言はずにゐる。黙殺してゐるのである。
 それは兎に角、辻に立つ人は多くの師に逢つて、一人の主にも逢はなかつた。そしてどんなに巧みに組み立てた形而上学《けいじじやうがく》でも、一篇の抒情詩に等しいものだと云ふことを知つた。

       *     *     *

 形而上学と云ふ、和蘭《オランダ》寺院楽《じゐんがく》の諧律《かいりつ》のやうな組立てに倦《う》んだ自分の耳に、或時ちぎれちぎれの Aphor
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