ナ来た自然科学はどうしたか。帰つた当座一年か二年は Laboratorium《ラボラトリウム》 に這人つてゐて、ごつごつと馬鹿正直に働いて、本《もと》の杢阿弥説《もくあみせつ》に根拠を与へてゐた。正直に試験して見れば、何千年といふ間満足に発展して来た日本人が、そんなに反理性的生活をしてゐよう筈はない。初から知れ切つた事である。
さてそれから一歩進んで、新しい地盤の上に新しい Forschung《フオルシユング》 を企てようといふ段になると、地位と境遇とが自分を為事場《しごとば》から撥《は》ね出した。自然科学よ、さらばである。
勿論自然科学の方面では、自分なんぞより有力な友達が大勢あつて、跡に残つて奮闘してゐてくれるから、自分の撥ね出されたのは、国家の為めにも、人類の為めにもなんの損失にもならない。
只奮闘してゐる友達には気の毒である。依然として雰囲気《ふんゐき》の無い処で、高圧の下に働く潜水夫のやうに喘《あへ》ぎ苦んでゐる。雰囲気の無い証拠には、まだ Forschung《フオルシユング》 といふ日本語も出来てゐない。そんな概念を明確に言ひ現す必要をば、社会が感じてゐないのである。自慢でもなんでもないが、「業績」とか「学問の推挽《すゐばん》」とか云ふやうな造語《ざうご》を、自分が自然科学界に置土産にして来たが、まだ Forschung《フオルシユング》 といふ意味の簡短で明確な日本語は無い。研究なんといふぼんやりした語《ことば》は、実際役に立たない。載籍調《さいせきしら》べも研究ではないか。
* * *
かう云ふ閲歴をして来ても、未来の幻影を逐《お》うて、現在の事実を蔑《ないがしろ》にする自分の心は、まだ元の儘《まま》である。人の生涯はもう下り坂になつて行くのに、逐うてゐるのはなんの影やら。
「奈何《いか》にして人は己を知ることを得べきか。省察《せいさつ》を以てしては決して能はざらん。されど行為を以てしては或は能《よ》くせむ。汝《なんぢ》の義務を果さんと試みよ。やがて汝の価値を知らむ。汝の義務とは何ぞ。日《ひ》の要求なり。」これは Goethe《ギヨオテ》 の詞《ことば》である。
日の要求を義務として、それを果して行く。これは丁度現在の事実を蔑《ないがしろ》にする反対である。自分はどうしてさう云ふ境地に身を置くことが出来ないだらう。
日の要求に応じて能事《のうじ》畢《をは》るとするには足ることを知らなくてはならない。足ることを知るといふことが、自分には出来ない。自分は永遠なる不平家である。どうしても自分のゐない筈の所に自分がゐるやうである。どうしても灰色の鳥を青い鳥に見ることが出来ないのである。道に迷つてゐるのである。夢を見てゐるのである。夢を見てゐて、青い鳥を夢の中に尋ねてゐるのである。なぜだと問うたところで、それに答へることは出来ない。これは只単純なる事実である。自分の意識の上の事実である。
自分は此儘で人生の下り坂を下つて行く。そしてその下り果てた所が死だといふことを知つて居る。
併しその死はこはくはない。人の説に、老年になるに従つて増長するといふ「死の恐怖」が、自分には無い。
若い時には、この死といふ目的地に達するまでに、自分の眼前に横はつてゐる謎《なぞ》を解きたいと、痛切に感じたことがある。その感じが次第に痛切でなくなつた。次第に薄らいだ。解けずに横はつてゐる謎が見えないのではない。見えてゐる謎を解くべきものだと思はないのでもない。それを解かうとしてあせらなくなつたのである。
この頃自分は Philipp《フイリツプ》 Mainlaender《マインレンデル》 が事を聞いて、その男の書いた救抜《きうばつ》の哲学を読んで見た。
此男は Hartmann《ハルトマン》 の迷《まよひ》の三期を承認してゐる。ところであらゆる錯迷《さくめい》を打ち破つて置いて、生を肯定しろと云ふのは無理だと云ふのである。これは皆迷だが、死んだつて駄目だから、迷を追つ掛けて行けとは云はれない筈だと云ふのである。人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面《おもて》を背《そむ》ける。次いで死の廻りに大きい圏《けん》を画《ゑが》いて、震慄《しんりつ》しながら歩いてゐる。その圏が漸《やうや》く小くなつて、とうとう疲れた腕を死の項《うなじ》に投げ掛けて、死と目と目を見合はす。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンデルは云つてゐる。
さう云つて置いて、マインレンデルは三十五歳で自殺したのである。
自分には死の恐怖が無いと同時にマインレンデルの「死の憧憬《しようけい》」も無い。
死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く。
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