セらう。
日の要求に応じて能事《のうじ》畢《をは》るとするには足ることを知らなくてはならない。足ることを知るといふことが、自分には出来ない。自分は永遠なる不平家である。どうしても自分のゐない筈の所に自分がゐるやうである。どうしても灰色の鳥を青い鳥に見ることが出来ないのである。道に迷つてゐるのである。夢を見てゐるのである。夢を見てゐて、青い鳥を夢の中に尋ねてゐるのである。なぜだと問うたところで、それに答へることは出来ない。これは只単純なる事実である。自分の意識の上の事実である。
自分は此儘で人生の下り坂を下つて行く。そしてその下り果てた所が死だといふことを知つて居る。
併しその死はこはくはない。人の説に、老年になるに従つて増長するといふ「死の恐怖」が、自分には無い。
若い時には、この死といふ目的地に達するまでに、自分の眼前に横はつてゐる謎《なぞ》を解きたいと、痛切に感じたことがある。その感じが次第に痛切でなくなつた。次第に薄らいだ。解けずに横はつてゐる謎が見えないのではない。見えてゐる謎を解くべきものだと思はないのでもない。それを解かうとしてあせらなくなつたのである。
この頃自分は Philipp《フイリツプ》 Mainlaender《マインレンデル》 が事を聞いて、その男の書いた救抜《きうばつ》の哲学を読んで見た。
此男は Hartmann《ハルトマン》 の迷《まよひ》の三期を承認してゐる。ところであらゆる錯迷《さくめい》を打ち破つて置いて、生を肯定しろと云ふのは無理だと云ふのである。これは皆迷だが、死んだつて駄目だから、迷を追つ掛けて行けとは云はれない筈だと云ふのである。人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面《おもて》を背《そむ》ける。次いで死の廻りに大きい圏《けん》を画《ゑが》いて、震慄《しんりつ》しながら歩いてゐる。その圏が漸《やうや》く小くなつて、とうとう疲れた腕を死の項《うなじ》に投げ掛けて、死と目と目を見合はす。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンデルは云つてゐる。
さう云つて置いて、マインレンデルは三十五歳で自殺したのである。
自分には死の恐怖が無いと同時にマインレンデルの「死の憧憬《しようけい》」も無い。
死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く。
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