曲的な原因があるだらうと云ふ推測をさせるのが、何より易い事である。併し墓の下に這入つた跡に、僕は少しもそんな葛藤を残して置きたくない。それよりは此決心を僕の胸の中《うち》で熟せしめた事情を、簡単に君に説明して聞かす方が好からうと、僕は思ふ。その決心は此間から出来てゐて、これから暫時《ざんじ》の後に実行する筈になつてゐるのである。
ねえ、君、世間には恋愛、心痛、厭世、怯懦《けふだ》、自惚《うぬぼれ》、公憤から自殺する人があるのだね。併し僕はこんな動機の中のどれにも動かされて死ぬるのではない。僕は誰に対しても不正な事をしたことはない。又世間の耳目を聳動《しようどう》して見ようなんぞとは思はない。恐怖や絶望のために、こんな決心をしたのではない。人生は僕のためには十分耐へ忍んで行くことの出来るものである。僕は我生存の上に煩累をなす何物をも見出さない。僕には失恋の恨は無い。啻《ただ》に恨が無いばかりではない。目下頗る心を怡《たのし》ましむるに足る情人を我所有としてゐる。然るに僕は此手紙を書いてしまふと、あの黯澹たる深紅色の我目を喜ばしむる、美しい波斯の氈の上で自殺しようと思ふ。
一体妙な事で
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