不可説《ふかせつ》
アンリ・ド・レニエエ(Henri de Re[#「e」にアクサン‐テギュ]gnier)
森林太郎訳
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)家隷《けらい》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一|塊《くわい》の石
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いよ/\
−−
愛する友よ。此手紙が君の手に届いた時には、僕はもう此世にゐないだらう。此手紙の這入つた封筒が封ぜられて、僕の忠実な家隷《けらい》フランソアが「すぐに出せ」と云ふ命令と共に、それを受け取るや否や、今物を書いてゐる此机の引出しから、僕は拳銃を取り出して、それを手に持つて長椅子の上に横になるだらう。後《のち》に僕の死んでゐるのが、そこで見出されるだらう。長椅子に掛けてある近東製の氈《かも》を、流れ出る僕の血が汚《けが》さないやうにする積《つもり》だ。若しあの絹のやうに光る深紅色が余り傷んでゐなかつたら、君あれを記念に取つて置いてくれ給へ。あの冷やかな、鈍い色と、品の好い波斯《ペルシヤ》の模様とを君は好いてゐたのだから。
よし君が友人中の長も遠慮深い人であつたとしても、なぜ僕がこんな風にして此世を去るかと云ふことを、君はきつと問ふだらう。それを僕は無理だとは思はない。僕はまだ若い。金はある。体は丈夫だ。世間には精神上か又は肉体上に苦痛があつて、そのために死を求める人が随分あるやうだが、そんな苦痛は僕には無い。苦痛どころではない。沈鬱をも僕は感じてゐない。どうかするとなまけた挙句《あげく》に世の中が面白くなくなると云ふこともあるが、それも僕には無い。又さう云ふ精神上の難関があつたとしても、それを凌いで通る手段が、僕には幾らもあつた筈だ。さう云ふ手段を、僕はいつも巧者に、有利に用ゐて来たものだ。世の中が面白くなくなつた時、気を紛《まぎ》らすには、本を読んだり、旅をしたり、友達と遊んだりすることも出来るではないか。それは慥《たし》かにさうに違ない。それでも僕は死ぬるのだ。若し僕がロマンチツクとかコケツトリイとか云ふやうな傾《かたむ》きを持つてゐて、忠実な、頼もしい友人が、僕が死んだ跡で、余計な思慮を費すやうにしようと思つたなら、今僕のしようと思ふことをするに臨んで、僕は勝手に秘密らしい、熱情のあるらしい、戯
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