]証拠がまだある。煖炉の縁の上にあつた髪の毛だね。白髪の毛が幾束も根こじに引き抜いてあつたのだ。仮令《たとへ》二十本か三十本でも人の髪の毛を一しよに頭から引き抜かうと云ふには、どれだけの力がいるか、考へて見給へ。君も僕といつしよにあの髪を見たのだからね。あの髪の根には頭の皮がちぎれて食つ付いてゐたつけね。何千本と云ふ髪の毛を一掴にして、皮の付いて来るやうに抜いた力は大したものではないか。それからお婆あさんの吭の切りやうだね。吭を切つたゞけなら好いが、頭が胴から切り放してあつた。然もそれが剃刀で遣つたらしいのだね。それだけだつて人間らしくない粗暴な為業だ。その外夫人の体の挫傷も下手人の力の非常に強い証拠になる。ドユマアと云ふ医者と、エチアンヌと云ふ助手とが、鈍い器で付けた創だと云つたが、如何にもその通りで、その鈍い器は、僕の考では、あの中庭に敷いてある敷石だ。警察の奴等がそこに気の付かなかつたのは、例の窓枠に気の付かなかつたのと同じわけだ。内から釘が插してあると云ふだけを見て、それから先は考へずに置くと云ふ流義だね。」
「これまで話した事と、その外室内がひどく荒してあつたと云ふ事とを考へ合せて見れば、次の事実が分かるのだ。非常に軽捷だと云ふ事、一人の力とは思はれない程の力があると云ふ事、人間らしくない粗暴な事をすると云ふ事、意味のない荒しやうをすると云ふ事、これを合せて見ると、残酷の中に人間離れのした異様な挙動があるのだ。そこへ誰の耳にも外国人らしく聞えて、詞としては聞き取られない声を考へ合せて見るのだね。そこで君はどう判断する。どう云ふ考が君には浮んで来る。」
 ドユパンにこの問を出された時、己は骨に徹《こた》へるやうな気味悪さを感じた。そして云つた。
「気違だらうか。どこか近い所にある精神病院を脱け出した躁狂患者だらうか。」
「さうさ。君の判断も一部分から見れば無理ではない。併し躁狂の猛烈な発作の時だつて、そんな不思議な声は出さない。狂人だつてどこかの国の人間だから、どんなに切れ切れにどなつても、声が詞にはなつてゐる。そこで僕は君に見せるものがあるのだ。これを見給へ。気違だつて人間だから、こんな毛が生えてゐはしない。」かう云つて友達は手の平に載せた毛を見せた。「これはレスパネエ夫人が握り固めてゐた拳の中にあつた毛だよ。君はこれをなんの毛だと思ふ。」
 己はいよ/\
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