C味が悪くなつて云つた。「成程、それは不思議な毛だね。人間の毛ではないね。」
「さうさ。僕だつて人間の毛だと云つてはゐないぢやないか。併し僕の考を話すより前に、君にこの図が見て貰ひたい。これは僕があの時鉛筆で写して置いたのだ。証人共が紫色になつてゐる痕だと云つたり、ドユマアやエチアンヌが皮下出血の斑点だと云つたりした、あのレスパネエの娘の頸の指痕だよ。」かう云つて友達は卓の上にその紙を拡げた。「この痕で見ると、一掴にしつかり掴んだもので、指が少しもすべらなかつたことが分かる。一度掴んだ手は、娘さんが死んでしまふまで放さなかつたのだ。ところで君の右の手を拡げてこの指の痕に当てがつて見給へ。」
己は出来るだけ指の股を拡げて、図の上に当てがつて見たが、合はない。
「ところでまだ君のその手が今の場合に合はないだけでは、正碓な判断が出来ぬかも知れない。なぜと云ふにその紙は平な卓の上に拡げてある。人間の頸は円筒形になつてゐる。こゝに円い木の切がある。大抵大きさも人間の頸位だ。これにその紙を巻いて手を当てゝ見給へ。」
己は友達の云ふ通りにして、又手を当てゝ見たが、やはり合はない。この時己は云つた。
「どうもこれは人間の手ではないね。」
「よし。それならこゝにあるこの文章を読んで見給へ。」かう云つて友達の出したのは、キユヰエエの著書で、東印度諸島に産する、暗褐色の毛をした猩々《しやう/″\》の解剖学的記述である。初の方には体の大きい事、非常に軽捷で力の強い事、ひどく粗暴な事、好んで人真似をする事などが書いてあつて、それから体の解剖になつて、手の指の説明がある。己はそれを読んでしまつて云つた。
「成程、この手の指の説明は、君の取つた図に符合するね。どうも猩々より外にはこの図にあるやうな指痕を付けることは出来まい。それに君の取つて来たこの毛の褐色な色合もキユヰエエの書いてゐる通りだ。さうして見ると人殺をしたのは猩々であつたのだらう。併しまだ僕には十分飲み籠めないことがあるね。証人の聞いた声は二人以上で、中にフランス人がゐたと云ふのだからね。」
「成程、それは君の云ふ通りだ。君も覚えてゐるか知らないが、証人の中で大勢が聞き取つたフランス語の中に『畜生』と云ふ語があつた。あれを証人の一人が相手を叱るやうな調子だつたと云つてゐる。たしかモンタニと云ふ菓子商の申立だつたね。僕はあれに本づい
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