゚類を取つたとすると、好い物を残して置く筈がない。又皆取らずに置く筈がない。その外金貨四千フランもそつくりあつたと云ふぢやないか。まさか金貨や上等の衣類を残して置いて、不断着を背負つて逃げはすまいぢやないか。然も残つてゐた金貨は夫人がミニオオ銀行から引き出して来た金の全額で、それが袋に入れたまゝ床の上にあつたのだ。警察のやつらは銀行の関係者の証言を土台にして、金を目当の殺人犯だと狙ひを付けてゐるらしいが、僕の説明をこゝまで聞いた以上は、君はそんな見当違ひの所に殺人犯の動機があらうなんぞと思はないことにして貰ひたい。世間には前の出来事と後の出来事となんの関係もない事が幾らもある。金を受け取つて、それからその受け取つた人が三日目に殺されたと云ふより、もつと関係がありさうで関係のない事が沢山ある。兎角練習の足りない人の思想は偶然と云ふ石に躓《つまづ》き易い。それは恐然《きようぜん》の法則、プロバビリチイの法則と云ふものを知らないからだ。あらゆる学科にあの法則で得た発明が沢山あるのだ。三日前に金を受け取つて殺されたとしても、その金が紛失してゐたなら、金と殺人犯との間に偶然以上の関係があるものとも見られよう。さう云ふ場合には殺人犯の動機を金に求めても好からう。併し今の場合で金を動機だとするには、その下手人を非常なぐづだとしなくてはならない。馬鹿だとしなくてはならない。さうしなくては動機と金とを一しよに擲《なげう》つたわけになるのだからね。」
「そこで我々は先づこれまで研究して得た重要な箇条をしつかり捕捉してゐる事とするのだね。即ち不思議な声と、それから非常な敏捷な体との二つだ。それからその外にはこれと云ふ動機が全然欠けてゐると云ふ事実をも忘れてはならない。そこで我々はあの殺された女達の創のことを考へて見よう。」
「一人の女は素手で絞め殺して、死骸を逆《さかさ》に煖炉の中にねぢ込んであつた。どうもこれは普通の殺し方ではないね。殊に死骸の隠し方が不思議だ。そんな風に死骸を煖炉の中にねぢ込むと云ふことは、どうも人間の所為としては受け取れない。如何に人の性を失つた極悪人のした事としても受け取れない。その上女の体を狭い所へねぢ込んで、それを引き出すのに数人の力を合せて、やつと引き出されるやうにしたには、不思議な力がなくてはならないのだね。」
「その外非常な力のある奴の為業《しわざ》だと
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