舟には酒肴《しゅこう》が出してあったが、一々どの舟へも、主人側のものを配ると云うような、細かい計画はしてなかったのか、世話を焼いて杯《さかずき》を侑《すす》めるものもない。こう云う時の習《ならい》として、最初は一同遠慮をして酒肴に手を出さずに、只|睨《にら》み合っていた。そのうち結城紬《ゆうきつむぎ》の単物《ひとえもの》に、縞絽《しまろ》の羽織を着た、五十恰好の赤ら顔の男が、「どうです、皆さん、切角出してあるものですから」と云って、杯を手に取ると、方方から手が出て、杯を取る。割箸《わりばし》を取る。盛んに飲食が始まった。しかし話はやはり時候の挨拶位のものである。「どうです。こう天気続きでは、米が出来ますでしょうなあ」「さようさ。又米が安過ぎて不景気と云うような事になるでしょう」「そいつあ※[#「りっしんべん+(はこがまえ<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》いませんぜ。鶴亀《つるかめ》鶴亀」こんな対話である。
僕のいる所からは、すぐ前を漕いで行く舟の艫《とも》の方が見える。そこにはお酌が二人乗っている。傍《そば》に頭を五分刈にして、織地のままの繭紬《けんちゅう》の陰紋附《かげもん
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