がしていたが、舟を漕《こ》ぎ出すと、すぐ極《ごく》好い心持に涼しくなった。まだ花火を見る舟は出ないので、川面《かわづら》は存外込み合っていない。僕の乗った舟を漕いでいる四十|恰好《がっこう》の船頭は、手垢《てあか》によごれた根附《ねつけ》の牙彫《げぼり》のような顔に、極めて真面目《まじめ》な表情を見せて、器械的に手足を動かして※[#「舟+虜」、第4水準2−85−82]《ろ》を操《あやつ》っている。飾磨屋の事だから、定めて祝儀もはずむのだろうに、嬉《うれ》しそうには見えない。「勝手な馬鹿をするが好い。己《おれ》は舟さえ漕いでいれば済むのだ」とでも云いたそうである。
 僕は薄縁《うすべり》の上に胡坐《あぐら》を掻《か》いて、麦藁《むぎわら》帽子を脱いで、ハンケチを出して額の汗を拭《ふ》きながら、舟の中の人の顔を見渡した。船宿を出て舟に乗るまでに、外の座敷の客が交ったと見えて、さっき見なかった顔がだいぶある。依田さんは別の舟に乗ったと見えて、とうとう知った顔が一人もなくなった。そしてその知らない、幾つかの顔が、やはり二階で見た時のように、ぼんやりして、てんでに勝手な事を考えているらしい。
 
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