ものに呼ばれては来たものの、その百物語は過ぎ去った世の遺物である。遺物だと云っても、物はもう亡くなって、只|空《むなし》き名が残っているに過ぎない。客観《かっかん》的には元から幽霊は幽霊であったのだが、昔それに無い内容を嘘《ふ》き入れて、有りそうにした主観までが、今は消え失せてしまっている。怪談だの百物語だのと云うものの全体が、イブセンの所謂《いわゆる》幽霊になってしまっている。それだから人を引き附ける力がない。客がてんでに勝手な事を考えるのを妨げる力がない。
 人も我もぼんやりしている処へ、世話人らしい男が来て、舟へ案内した。この船宿の桟橋《さんばし》ばかりに屋根船が五六|艘《そう》着いている。それへ階上階下から人が出て乗り込む。中には友禅《ゆうぜん》の赤い袖がちら附いて、「一しょに乗りたいわよ、こっちへお出《いで》よ」と友を誘うお酌の甲走《かんばし》った声がする。しかし客は大抵男ばかりで、女は余り交っていないらしい。皆乗り込んでしまうまで、僕は主人の飾磨屋がどこにいるか知らずにしまった。又蔀君にも逢わなかった。
 船宿の二階は、戸は開け放してあっても、一ぱいに押し込んだ客の人いきれ
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