生けてある頃の寒い夜が、もうだいぶ更けていて、紅葉君は火鉢《ひばち》の傍《わき》へ、肱枕《ひじまくら》をして寐《ね》てしまった。尤《もっと》も紅葉君は折々|狸寐入《たぬきねいり》をする人であったから、本当に寐ていたかどうだか知らない。僕はふいと床の間の方を見ると、一座は大抵縞物を着ているのに、黒羽二重《くろはぶたえ》の紋付と云う異様な出立《いでたち》をした長田秋濤《おさだしゅうとう》君が床柱に倚り掛かって、下太りの血色の好い顔をして、自分の前に据わっている若い芸者と話をしていた。その芸者は少し体を屈めて据わって、沈んだ調子の静かな声で、只の娘らしい話振をしていたが、島田に結った髪の毛や、頬のふっくりした顔が、いかにも可哀らしいので、僕が傍の人に名を聞いて見たら、「君まだ太郎を知らないのですか」と、その人がさも驚いたような返事をした。
 太郎が芸者らしくないと云う感じは、その時から僕にはあったのだが、きょう見ればだいぶ変っている。それでもやはり芸者らしくはない。先きの無邪気な、娘らしい処はもうなくなって、その時つつましい中《うち》にも始終見せていた笑顔《えがお》が、今はめったに見られそう
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