った客の中には、外に知人もなかったのを幸《さいわい》に、僕は黙って起って、舟から出るとき取り換えられた、歯の斜に耗《へ》らされた古下駄を穿いて、ぶらりとこの怪物《ばけもの》屋敷を出た。少し目の慣れるまで、歩き艱《なや》んだ夕闇《ゆうやみ》の田圃道には、道端《みちばた》の草の蔭で※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]《こおろぎ》が微《かす》かに鳴き出していた。

     *     *     *

 二三日立ってから蔀君に逢ったので、「あれからどうしました」と僕が聞いたら、蔀君がこう云った。「あなたのお帰りになったのは、丁度好い引上時でしたよ。暫く談《はなし》を聞いているうちに、飾磨屋さんがいなくなったので聞いて見ると、太郎を連れて二階へ上がって、蚊屋《かや》を吊《つ》らせて寐たと云うじゃありませんか。失礼な事をしても構わないと云うような人ではないのですが、無頓着《むとんじゃく》なので、そんな事をもするのですね」と云った。
 傍観者と云うものは、やはり多少人を馬鹿にしているに極《き》まっていはしないかと僕は思った。



底本:「山椒大夫・高瀬舟」新潮文庫、新潮社
   1968(昭和43)年5月30日発行
   1985(昭和60)年6月10日41刷改版
   1990(平成2)年5月30日53刷
※底本には、表記の変更に関する以下の注記が見られる。
「本書は旧仮名づかいで書かれていたものを(中略)、現代仮名づかいに改めた。」
 加えて、極端な宛て字と思われるもの、代名詞、副詞、接続詞などは、以下のように書き換えたとある。
…か知ら→…かしら 此→かく 彼此→かれこれ …切り→…きり 此→これ 是→これ 流石→さすが 併し→しかし 切角→せっかく 其→その 大ぶ→だいぶ …丈→…だけ 兎角→とにかく 所で→ところで 只管→ひたすら 迄→まで 儘→まま 矢張→やはり
入力:砂場清隆
校正:松永正敏
2000年8月9日公開
2006年5月12日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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