な心持がして来た。傍観者が傍観者を認めたような心持がしてきた。
 僕は飾磨屋の前生涯を知らない。あの男が少壮にして鉅万《きょまん》の富を譲り受けた時、どう云う志望を懐《いだ》いていたか、どう云う活動を試みたか、それは僕に語る人がなかった。しかし彼が芸人|附合《つきあい》を盛んにし出して、今紀文と云われるようになってから、もう余程の年月《としつき》が立っている。察するに飾磨屋は僕のような、生れながらの傍観者ではなかっただろう。それが今は慥かに傍観者になっている。しかしどうしてなったのだろうか。よもや西洋で僕の師友にしていた学者のような、オルガニックな欠陥が出来たのではあるまい。そうして見れば飾磨屋は、どうかした場合に、どうかした無形の創痍《そうい》を受けてそれが癒《い》えずにいる為めに、傍観者になったのではあるまいか。
 若しそうだとすると、その飾磨屋がどうして今宵のような催しをするのだろう。世間にはもう飾磨屋の破産を云々《うんぬん》するものもある。豪遊の名を一時に擅《ほしいまま》にしてから、もうだいぶ久しくなるのだから、内証は或はそうなっているかも知れない。それでいて、こんな催しをするのは、彼が忽ち富豪の主人になって、人を凌《しの》ぎ世に傲《おご》った前生活の惰力ではあるまいか。その惰力に任せて、彼は依然こんな事をして、丁度創作家が同時に批評家の眼で自分の作品を見る様に、過ぎ去った栄華のなごりを、現在の傍観者の態度で見ているのではあるまいか。
 僕の考は又一転して太郎の上に及んだ。あれは一体どんな女だろう。破産の噂《うわさ》が、殆ど別な世界に栖息《せいそく》していると云って好い僕なんぞの耳に這入る位であるから、怜悧《れいり》らしいあの女がそれに気が附かずにいる筈《はず》はない。なぜ死期《しご》の近い病人の体を蝨《しらみ》が離れるように、あの女は離れないだろう。それに今の飾磨屋の性質はどうだ。傍観者ではないか。傍観者は女の好んで択《えら》ぶ相手ではない。なぜと云うに、生活だの生活の喜《よろこび》だのと云うものは、傍観者の傍では求められないからである。そんなら一体どうしたと云うのだろう。僕の頭には、又病人と看護婦と云う印象が浮んで来た。女の生涯に取って、報酬を予期しない看護婦になると云うこと、しかもその看護を自己の生活の唯一の内容としていると云うこと程、大いなる犠牲は又とあるまい。それも夫婦の義務の鎖に繋《つな》がれていてする、イブセンの謂《い》う幽霊に祟《たた》られていてすると云うなら、別問題であろう。この場合にそれはない。又恋愛の欲望の鞭《むち》でむちうたれていてすると云うなら、それも別問題であろう。この場合に果してそれがあろうか、少くも疑を挟《はさ》む余地がある。そうして見ると、財産でもなく、生活の喜でもなく、義務でもなく、恋愛でもないとして考えて、僕はあの女の捧げる犠牲のいよいよ大きくなるのに驚かずにはいられなかったのである。
 僕はこんな事を考えて、鮓を食ってしまった跡に、生姜《しょうが》のへがしたのが残っている半紙を手に持ったまま、ぼんやりしてやはり二人の方を見ていた。その時一人の世話人らしい男が、飾磨屋の傍へ来て何か※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]くと、これまで殆ど人形のように動かずにいた飾磨屋が、つと起《た》って奥に這入った。太郎もその跡に引き添って這入った。
 暫くすると蔀君が僕のいる所へ来て、縁側にしゃがんで云った。「今あっちの座敷で弁当を上がっていなすった依田先生が もう怪談はお預けにして置いて帰ると云われたので、飾磨屋さんは見送りに立ったのです。もう暑くはありませんから、これから障子を立てさせて、狭くても皆さんにここへ集まって貰って、怪談を始めさせるのだそうです」と云った。僕はさっき飾磨屋を始て見たとき、あの沈鬱なような表情に気を附け、それからこの男の瞬《またた》きもせずに、じっとして据わっているのを、稍久しく見て、始終なんだか人を馬鹿にしているのではないかというような感じを心の底に持っていた。この感じが鋭くなって、一|刹那《せつな》あの目をデモニックだとさえ思ったのである。そうであるのに、この感じが、今依田さんを送りに立ったと云うだけの事を、蔀君の話に聞いて、なんとなく少し和げられた。僕は蔀君には、只自分もそろそろ帰ろうかと思っていると云うことを告げた。僕は最初に、百物語だと云って、どんな事をするだろうかと思った好奇心も、催主の飾磨屋がどんな人物だろうかと思った好奇心も、今は大抵満足させられてしまって、この上雇われた話家の口から 古い怪談を聞こうと云う希望は少しも無くなっていたからである。蔀君は留めようともしなかった。
 改まって主人に暇乞《いとまごい》をしなくてはならないような席でもなし、集ま
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