イイダの君、『あの見ぐるしき口なほして得させよ、』とむつかりて止《や》まず。母なる夫人聞きて、幼きものの心やさしういふなればとて医師《くすし》して縫《ぬ》はせ玉ひぬ。」
「その時よりかの童《わらべ》は城にとどまりて、羊飼《ひつじかい》となりしが、賜《たま》はりしもてあそびの笛を離さず、後《のち》にはみづから木を削《けず》りて笛を作り、ひたすら吹きならふほどに、たれ教ふるものなけれど、自然にかかる音色《ねいろ》を出《いだ》すやうになりぬ。」
「一昨年《おととし》の夏わが休暇たまはりてここに来たりし頃、城の一族とほ乗《のり》せむと出でしが、イイダの君が白き駒《こま》すぐれて疾《と》く、われのみ継《つ》きゆくをり、狭き道のまがり角にて、かれ草うづ高く積める荷車に逢《あ》ひぬ。馬はおびえて一躍し、姫は辛《かろ》うじて鞍《くら》にこらへたり。わがすくひにゆかむとするを待たで、傍《かたえ》なる高草の裏にあと叫ぶ声すと聞く間《ま》に、羊飼の童《わらべ》飛ぶごとくに馳寄《はせよ》り、姫が馬の轡《くつわ》ぎは緊《しか》と握りておし鎮《しず》めぬ。この童が牧場《まきば》のいとまだにあれば、見えがくれにわが
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