》して、車の扉開きし剣《つるぎ》佩《お》びたる殿守《とのもり》をかへりみもせで入りし跡にて、その乗りたりし車はまだ動かず、次に待ちたる車もまだ寄せぬ間をはかり、槍取りて左右にならびたる熊毛※[#「(矛+攵)/金」、第3水準1−93−30]《くまげかぶと》の近衛卒《このえそつ》の前を過ぎ、赤き氈《かも》を一筋に敷きたる大理石《マーブル》の階《きざはし》をのぼりぬ。階の両側《ふたがわ》のところどころには、黄羅紗《きラシャ》にみどりと白との縁取《ふちど》りたる「リフレエ」を着て、濃紫《こむらさき》の袴《はかま》を穿《は》いたる男、項《うなじ》を屈《かが》めて瞬《またたき》もせず立ちたり。むかしはここに立つ人おのおの手燭《てしょく》持つ習なりしが、いま廊下、階段に瓦斯燈《ガスとう》用ゐることとなりて、それは罷《や》みぬ。階の上なる広間よりは、古風《いにしえぶり》を存ぜる弔燭台《つりしょくだい》の黄蝋《おうろう》の火遠く光の波を漲《みなぎ》らせ、数知らぬ勲章、肩じるし、女服の飾などを射て、祖先よよの油画《あぶらえ》の肖像の間に挾まれたる大鏡に照反《てりかえ》されたる、いへば尋常《よのつね》なり。
 式部官が突く金総《きんぶさ》ついたる杖《つえ》、「パルケット」の板に触れてとうとうと鳴りひびけば、天鵝絨《ビロード》ばりの扉一時に音もなくさとあきて、広間のまなかに一条《ひとすじ》の道おのづから開け、こよひ六百人と聞えし客、みなくの字なりに身を曲げ、背の中ほどまでも截《き》りあけてみせたる貴婦人の項《うなじ》、金糸《きんし》の縫模様《ぬいもよう》ある軍人の襟《えり》、また明色《ブロンド》の高髻《たかまげ》などの間を王族の一行|過《よぎ》りたまふ。真先《まさき》にはむかしながらの巻毛の大仮髪《おおかずら》をかぶりたる舎人《とねり》二人、ひきつづいて王妃両陛下、ザックセン、マイニンゲンのよつぎの君夫婦、ワイマル、ショオンベルヒの両公子、これにおもなる女官数人|随《したが》へり。ザックセン王宮の女官はみにくしといふ世の噂《うわさ》むなしからず、いづれも顔立《かおだち》よからぬに、人の世の春さへはや過ぎたるが多く、なかにはおい皺《しわ》みて肋《あばら》一つ一つに数ふべき胸を、式なればえも隠さで出《いだ》したるなどを、額越《ひたいご》しにうち見るほどに、心待《こころまち》せしその人は来ずして
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