に筆染むることなればおもふのみにて罷《や》みぬ。
 その年も隊務いそがはしき中に暮れて、エルベがは上流の雪消《ゆきげ》にはちす葉の如き氷塊、みどりの波にただよふとき、王宮の新年はなばなしく、足もと危《あやう》き蝋磨《ろうみが》きの寄木《よせぎ》を践《ふ》み、国王のおん前近う進みて、正服うるはしき立姿を拝し、それよりふつか三日過ぎて、国務大臣フォン・ファブリイス伯の夜会に招かれ、墺太利《オーストリア》、バワリア、北|亜米利加《アメリカ》などの公使の挨拶|畢《おわ》りて、人々こほり菓子に匙《さじ》を下す隙《すき》を覗《うかが》ひ、伯爵夫人の傍《かたえ》に歩寄り、事のもと手短に陳《の》べて、首尾好くイイダ姫が文をわたしぬ。
 一月中旬に入りて昇進任命などにあへる士官とともに、奥のおん目見《まみ》えをゆるされ、正服着て宮に参り、人々と輪なりに一間《ひとま》に立ちて臨御《りんぎょ》を待つほどに、ゆがみよろぼひたる式部官に案内せられて妃《きさき》出でたまひ、式部官に名をいはせて、ひとりびとりこと葉を掛け、手袋はづしたる右の手の甲に接吻《せっぷん》せしめ玉ふ。妃は髪黒く丈《たけ》低く、褐《かち》いろの御衣《おんぞ》あまり見映せぬかはりには、声音《こわね》いとやさしく、「おん身は仏蘭西《フランス》の役《えき》に功ありしそれがしが族《うから》なりや、」など懇《ねもごろ》にものし玉へば、いづれも嬉しとおもふなるべし。したがひ来《こ》し式の女官は奥の入口の閾《しきい》の上まで出で、右手《めて》に摺《たた》みたる扇《おうぎ》を持ちたるままに直立したる、その姿いといと気高く、鴨居《かもい》柱を欄《わく》にしたる一面の画図に似たりけり。われは心ともなくその面《おもて》を見しに、この女官《にょかん》はイイダ姫なりき。ここにはそもそも奈何《いかに》して。
 王都の中央にてエルベ河を横ぎる鉄橋の上より望めば、シュロス・ガッセに跨《またが》りたる王宮の窓、こよひは殊更にひかりかがやきたり。われも数には漏れで、けふの舞踏会にまねかれたれば、アウグスツスの広《ひろ》こうぢに余りて列をなしたる馬車の間をくぐり、いま玄関に横づけにせし一輛《いちりょう》より出でたる貴婦人、毛革の肩掛を随身《ずいじん》にわたして車箱の裡《うち》へかくさせ、美しくゆひ上げたるこがね色の髪と、まばゆきまで白き領《えり》とを露《あらわ
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