《し》かず、小林《こばやし》ぬしは明日わが隊とともにムッチェンのかたへ立ちたまふべければ、君たちの中にて一人塔の顛《いただき》へ案内《あない》し、粉ひき車のあなたに、※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車《きしゃ》の烟《けぶり》見ゆるところをも見せ玉はずや、」といひぬ。
 口|疾《と》きすゑの姫もまだ何とも答へぬ間に、「われこそ」といひしは、おもひも掛けぬイイダ姫なり。物おほくいはぬ人の習《ならい》とて、遽《にわか》に出《いだ》ししこと葉と共に、顔さと赤《あか》めしが、はや先に立ちて誘《いざな》ふに、われは訝《いぶか》りつつも随ひ行きぬ。あとにては姫たちメエルハイムがめぐりに集まりて、「夕餉《ゆうげ》までにおもしろき話一つ聞かせ玉へ、」と迫りたりき。
 この塔は園に向きたるかたに、窪《くぼ》みたる階《きざはし》をつくりてその顛を平《たいらか》にしたれば、階段をのぼりおりする人も、顔に立ちたる人も下より明《あきらか》に見ゆべければ、イイダ姫が事もなくみづから案内せむといひしも、深く怪《あやし》むに足らず。姫はほとほと走るやうに塔の上口《のぼりくち》にゆきて、こなたを顧みたれば、われも急ぎて追付き、段の石をば先に立ちて踏みはじめぬ。ひと足遅れてのぼり来る姫の息|促《せま》りて苦しげなれば、あまたたび休みて、漸《ようよ》う上にいたりて見るに、ここはおもひの外に広く、めぐりに低き鉄欄干をつくり、中央に大なる切石一つ据ゑたり。
 今やわれ下界を離れたるこの塔の顛にて、きのふラアゲヰッツの丘の上より遙《はるか》に初対面せしときより、怪しくもこころを引かれて、いやしき物好にもあらず、いろなる心にもあらねど、夢に見、現《うつつ》におもふ少女と差向ひになりぬ。ここより望むべきザックセン平野のけしきはいかに美しくとも、茂れる林もあるべく、深き淵《ふち》もあるべしとおもはるるこの少女が心には、いかでか若《し》かむ。
 険《けわ》しく高き石級をのぼり来て、臉《ほお》にさしたる紅《くれない》の色まだ褪《あ》せぬに、まばゆきほどなるゆふ日の光に照されて、苦しき胸を鎮《しず》めむためにや、この顛の真中なる切石に腰うち掛け、かの物いふ目の瞳をきとわが面《おもて》に注ぎしときは、常は見ばえせざりし姫なれど、さきに珍らしき空想の曲かなでし時にもまして美しきに、いかなればか、某《なにがし》の刻
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