跡《あと》慕《した》ふを、姫これより知りて、人してものかづけなどはし玉ひしが、いかなる故にか、目通《めどおり》を許されず、童も姫がたまたま逢ひても、こと葉かけたまはぬにて、おのれを嫌ひ玉ふと知り、はてはみづから避くるやうになりしが、いまも遠きわたりより守《も》ることを忘れず、好みて姫が住める部屋の窓の下に小舟《おぶね》繋《つな》ぎて、夜も枯草の裡《うち》に眠れり。」
聞《き》き畢《おわ》りて眠《ねむり》に就くころは、ひがし窓の硝子《ガラス》はやほの暗うなりて、笛の音も断えたりしが、この夜イイダ姫おも影に見えぬ。その騎《の》りたる馬のみるみる黒くなるを、怪しとおもひて善《よ》く視《み》れば、人の面《おもて》にて欠唇なり。されど夢ごころには、姫がこれに騎りたるを、よのつねの事のやうに覚えて、しばしまた眺めたるに、姫とおもひしは「スフィンクス」の首《こうべ》にて、瞳《ひとみ》なき目なかば開きたり。馬と見しは前足おとなしく並べたる獅子《しし》なり。さてこの「スフィンクス」の頭《かしら》の上には、鸚鵡《おうむ》止まりて、わが面を見て笑ふさまいと憎し。
つとめて起き、窓おしあくれば、朝日の光|対岸《むこうぎし》の林を染め、微風《そよかぜ》はムルデの河づらに細紋をゑがき、水に近き草原には、ひと群の羊あり。萌黄色《もえぎいろ》の「キッテル」といふ衣短く、黒き臑《すね》をあらはしたる童、身の丈《たけ》きはめて低きが、おどろなす赤髪ふり乱して、手に持たる鞭《むち》面白げに鳴らしぬ。
この日は朝《あした》の珈琲を部屋にて飲み、午《ひる》頃大隊長と倶《とも》にグリンマといふところの銃猟仲間の会堂にゆきて演習見に来たまひぬる国王の宴《うたげ》にあづかるべきはずなれば、正服着て待つほどに、あるじの伯は馬車を借して階《きざはし》の上まで見送りぬ。われは外国士官といふをもて、将官、佐官をのみつどふるけふの会に招かれしが、メエルハイムは城に残りき。田舎なれど会堂おもひの外《ほか》に美しく、食卓の器は王宮よりはこび来ぬとて、純銀の皿、マイセン焼の陶《すえ》ものなどあり。この国のやき物は東洋のを粉本《ふんぽん》にしつといへど、染いだしたる草花などの色は、我|邦《くに》などのものに似もやらず。されどドレスデンの宮には、陶ものの間《ま》といふありて、支那《シナ》日本の花瓶《はながめ》の類《たぐい》おほ
前へ
次へ
全18ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング