の音は誰が出《いだ》ししか知りてやおはする、」と僅《わずか》にいふに、男爵こなたに向きて、「それにつきては一条《ひとくだり》のもの語《がたり》あり、われもこよひは何ゆゑか寝《いね》られねば、起きて語り聞かせむ。」と諾《うべな》ひぬ。
われらはまだ煖《ぬく》まらぬ臥床《ふしど》を降りて、まどの下《もと》なる小机にいむかひ、烟草《タバコ》燻《くゆ》らすほどに、さきの笛の音、また窓の外におこりて、乍《たちま》ち断えたちまち続き、ひな鶯《うぐいす》のこころみに鳴く如し。メエルハイムは謦咳《しわぶき》して語りいでぬ。
「十年《ととせ》ばかり前のことなるべし、ここより遠からぬブリョオゼンといふ村にあはれなる孤《みなしご》ありけり。六つ七つのとき流行《はやり》の時疫にふた親みななくなりしに、欠唇《いぐち》にていと醜《みにく》かりければ、かへりみるものなくほとほと饑《うえ》に迫りしが、ある日|麺包《パン》の乾きたるやあると、この城へもとめに来ぬ。その頃イイダの君はとをばかりなりしが、あはれがりて物とらせつ。玩《もてあそび》の笛ありしを与へて、『これ吹いて見よ、』といへど、欠唇なればえ銜《ふく》まず。イイダの君、『あの見ぐるしき口なほして得させよ、』とむつかりて止《や》まず。母なる夫人聞きて、幼きものの心やさしういふなればとて医師《くすし》して縫《ぬ》はせ玉ひぬ。」
「その時よりかの童《わらべ》は城にとどまりて、羊飼《ひつじかい》となりしが、賜《たま》はりしもてあそびの笛を離さず、後《のち》にはみづから木を削《けず》りて笛を作り、ひたすら吹きならふほどに、たれ教ふるものなけれど、自然にかかる音色《ねいろ》を出《いだ》すやうになりぬ。」
「一昨年《おととし》の夏わが休暇たまはりてここに来たりし頃、城の一族とほ乗《のり》せむと出でしが、イイダの君が白き駒《こま》すぐれて疾《と》く、われのみ継《つ》きゆくをり、狭き道のまがり角にて、かれ草うづ高く積める荷車に逢《あ》ひぬ。馬はおびえて一躍し、姫は辛《かろ》うじて鞍《くら》にこらへたり。わがすくひにゆかむとするを待たで、傍《かたえ》なる高草の裏にあと叫ぶ声すと聞く間《ま》に、羊飼の童《わらべ》飛ぶごとくに馳寄《はせよ》り、姫が馬の轡《くつわ》ぎは緊《しか》と握りておし鎮《しず》めぬ。この童が牧場《まきば》のいとまだにあれば、見えがくれにわが
前へ
次へ
全18ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング