ピヤノ」にむかひぬ。下部《しもべ》いそがはしく燭《しょく》をみぎひだりに立つれば、メエルハイムは「いづれの譜をかまゐらすべき、」と楽器のかたはらなる小卓《こづくえ》にあゆみ寄らむとせしに、イイダ姫「否、譜なくても」とて、おもむろに下《おろ》す指尖《ゆびさき》木端《タステン》に触れて起すや金石の響。しらべ繁くなりまさるにつれて、あさ霞《がすみ》の如きいろ、姫が瞼際《けんさい》に顕《あらわ》れ来《き》つ。ゆるらかに幾尺の水晶の念珠《ねんじゅ》を引くときは、ムルデの河もしばし流をとどむべく、忽《たちま》ち迫りて刀槍《とうそう》斉《ひとし》く鳴るときは、むかし行旅《こうりょ》を脅《おびやか》ししこの城の遠祖《とおつおや》も百年《ももとせ》の夢を破られやせむ。あはれ、この少女のこころは恒《つね》に狭き胸の内に閉ぢられて、こと葉となりてあらはるる便《たつき》なければ、その繊々《せんせん》たる指頭《ゆびさき》よりほとばしり出づるにやあらむ。唯《ただ》覚ゆ、糸声《しせい》の波はこのデウベン城をただよはせて、人もわれも浮きつ沈みつ流れゆくを。曲|正《まさ》に闌《たけなわ》になりて、この楽器のうちに潜《ひそ》みしさまざまの絃《いと》の鬼、ひとりびとりに窮《きわみ》なき怨《うらみ》を訴へをはりて、いまや諸声《もろごえ》たてて泣響《なきとよ》むやうなるとき、訝《いぶか》かしや、城外に笛の音《ね》起りて、たどたどしうも姫が「ピヤノ」にあはせむとす。
 弾《だん》じほれたるイイダ姫は、暫く心附かでありしが、かの笛の音ふと耳に入りぬと覚しく遽《にわか》にしらべを乱《みだ》りて、楽器の筐《はこ》も砕《くだ》くるやうなる音をせさせ、座を起ちたるおもては、常より蒼《あお》かりき。姫たち顔見合せて、「また欠唇《いぐち》のをこなる業《わざ》しけるよ。」とささやくほどに、外《と》なる笛の音絶えぬ。
 主人の伯は小部屋より出でて、「物くるほしきイイダが当座の曲は、いつものことにて珍らしからねど、君はさこそ驚きたまひけめ、」とわれに会釈しぬ。
 絶えしものの音わが耳にはなほ聞えて、うつつごころならず部屋へ還《かえ》りしが、こよひ見聞しことに心奪はれていもねられず。床をならべしメエルハイムを見れば、これもまだ醒《さ》めたり。問はまほしきことはさはなれど、さすがに憚《はばか》るところなきにあらねば、「さきの怪しき笛
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