《くすし》して縫わせたまいぬ」
「そのときよりかの童《わらべ》は城にとどまりて、羊飼いとなりしが、たまわりしもてあそびの笛を離さず、のちにはみずから木をけずりて笛を作り、ひたすら吹きなろうほどに、たれ教うるものなけれど、自然にかかる音色をだすようになりぬ」
「一昨年《おととし》の夏わが休暇たまわりてここに来たりしころ、城の一族とお乗りせんと出でしが、イイダの君が白き駒すぐれて疾《と》く、われのみ継《つ》きゆくおり、狭き道のまがり角にて、かれ草うず高く積める荷車にあいぬ。馬はおびえて一躍し、姫はかろうじて鞍《くら》にこらえたり。わがすくいにゆかんとするを待たで、かたえなる高草の裏にあと叫ぶ声すと聞く間に、羊飼いの童飛ぶごとくに馳《は》せ寄り、姫が馬の轡《くつわ》ぎわしかと握りておししずめぬ。この童が牧場のいとまだにあれば、見えがくれにわがあと慕うを、姫これより知りて、人してものかずけなどはしたまいしが、いかなる故にか、目通りを許されず、童も姫がたまたまあいても、ことばかけたまわぬにて、おのれを嫌いたもうと知り、はてはみずから避くるようになりしが、いまも遠きわたりより守《も》ることを忘れず、好みて姫が住める部屋の窓のもとに小舟《おぶね》つなぎて、夜も枯草のうちに眠れり」
 聞きおわりて眠りにつくころは、ひがし窓の硝子はやほの暗うなりて、笛の音もたえたりしが、この夜イイダ姫おも影に見えぬ。そののりたる馬のみるみる黒くなるを、怪しとおもいてよくみれば、人の面にて欠唇なり。されど夢ごころには、姫がこれにのりたるを、よのつねのことのように覚えて、しばしまた眺めたるに、姫とおもいしは「スフィンクス」の首《こうべ》にて、瞳なき目なかば開きたり。馬と見しは前足おとなしく並べたる獅子なり。さてこの「スフィンクス」の頭《かしら》の上には、鸚鵡とまりて、わが面を見て笑うさまいと憎し。
 つとめて起き、窓おしあくれば、朝日の光|対岸《むこうぎし》の林を染め、そよ風はムルデの河づらに細紋をえがき、水に近き草原には、ひと群れの羊あり。萌黄色《もえぎいろ》の「キッテル」という衣短く、黒き臑《すね》をあらわしたる童、身の丈《たけ》きわめて低きが、おどろなす赤髪ふり乱して、手に持ちたる鞭《むち》おもしろげに鳴らしぬ。
 この日は朝の珈琲を部屋にて飲み、午《ひる》ごろ大隊長とともにグリンマというところの
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