うちにひそみしさまざまの絃《いと》の鬼、ひとりびとりにきわみなき怨《うら》みを訴えおわりて、いまや諸声《もろごえ》たてて泣きとよむようなるとき、いぶかしや、城外に笛の音起りて、たどたどしゅうも姫が「ピヤノ」にあわせんとす。
 弾《だん》じほれたるイイダ姫は、しばらく心づかでありしが、かの笛の音ふと耳に入りぬと覚しくにわかにしらべを乱りて、楽器の筐《はこ》も砕くるようなる音をせさせ、座をたちたるおもては、常より蒼かりき。姫たち顔見合せて、「また欠唇《いぐち》のおこなる業《わざ》しけるよ」とささやくほどに、外《と》なる笛の音絶えぬ。
 主人の伯は小部屋《カビネット》より出でて、「ものくるおしきイイダが当座の曲は、いつものことにて珍らしからねど、君はさこそ驚きたまいけめ」とわれに会釈《えしゃく》しぬ。
 絶えしものの音わが耳にはなお聞えて、うつつごころならず部屋へかえりしが、こよい見聞きしことに心奪われていもねられず。床をならべしメエルハイムを見れば、これもまださめたり。問わまほしきことはさはなれど、さすがに憚《はばか》るところなきにあらねば、「さきの怪しき笛の音は誰がいだししか知りてやおわする」とわずかにいうに、男爵こなたに向きて、「それにつきては一条《ひとくだり》のもの語りあり、われもこよいはなにゆえか寝《いね》られねば、起きて語り聞かせん」とうべないぬ。
 われらはまだぬくまらぬ臥床《とこ》を降りて、まどの下なる小机にいむかい、煙草くゆらするほどに、さきの笛の音、また窓の外におこりて、たちまち断《た》えたちまちつづき、ひな鶯《うぐいす》のこころみに鳴くごとし。メエルハイムは謦咳《しわぶき》して語りいでぬ。
「十年《ととせ》ばかり前のことなるべし、ここより遠からぬブリョオゼンという村にあわれなる孤《みなしご》ありけり。六つ七つのときはやりの時疫《じえき》にふた親みななくなりしに、欠唇にていと醜かりければ、かえりみるものなくほとほと饑《う》えに迫りしが、ある日パンの乾きたるやあると、この城へもとめに来ぬ。そのころイイダの君はとおばかりなりしが、あわれがりて物とらせつ。もてあそびの笛ありしを与えて、『これ吹いてみよ』といえど、欠唇なればえふくまず。イイダの君、『あの見ぐるしき口なおして得させよ』とむつかりてやまず。母なる夫人聞きて、幼きものの心やさしゅういうなればとて医師
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