の苦味のある香《か》と、柑子《かうじ》の木の砂糖のやうに甘い匂とを吸つてゐた。
 己は此二様の香気を嗅いでゐるうちに、ふと妙な事に気が附いた。それは別荘の窓は悉《こと/″\》く開け放つてあるのに、只一箇所の窓丈鎖してあると云ふ事である。熟《よ》く視れば、この二つの窓は重げな扉で厳重に閉ぢてある。全体の正面は開けた窓の硝子《ガラス》に日光がさして光つてゐる。この二つの密閉した窓丈が暗い。なぜだらうか。己が怪訝《くわいが》の念を禁じ得ずして立つてゐると、己の肩の上に誰やらの手が置かれた。それは主人バルヂピエロの手であつた。主人は今一つの手には己のために書いた紹介状を持つてゐて、それを己にわたした。

     二

 己は礼を言つて、すぐに出立しようとした。まだノレツタまで往つて泊られる丈の日足は十分あつたのだ。ところが意外にも主人は己を留《と》めて一晩泊らせようと云つた。己はとう/\主人の意に任せることにして、それから二人で庭を歩いた。主人は己にまだ見なかつた所々を案内して見せた。主人の花紋のある長い上衣の褄が、砂の上を曳いてゐる。そして手には長い杖を衝いてゐて、折々その握りの処を歯で噬
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