抱きしを見て馭丁は呆れたる面もちにて、何やらむ髭の内にて云ひしが聞えず。
「善くぞ歸り來玉ひし。歸り來玉はずば我命は絶えなんを。」
我心はこの時までも定まらず、故郷を憶ふ念と榮達を求むる心とは、時として愛情を壓せんとせしが、唯だ此一刹那、低徊|踟※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]《ちちゆ》の思は去りて、余は彼を抱き、彼の頭は我肩に倚りて、彼が喜びの涙ははら/\と肩の上に落ちぬ。
「幾階か持ちて行くべき。」と鑼《どら》の如く叫びし馭丁は、いち早く登りて梯の上に立てり。
戸の外に出迎へしエリスが母に、馭丁を勞ひ玉へと銀貨をわたして、余は手を取りて引くエリスに伴はれ、急ぎて室に入りぬ。一瞥して余は驚きぬ、机の上には白き木綿、白き「レエス」などを堆《うづたか》く積み上げたれば。
エリスは打笑みつゝこれを指して、「何とか見玉ふ、この心がまへを。」といひつゝ一つの木綿ぎれを取上ぐるを見れば襁褓《むつき》なりき。「わが心の樂しさを思ひ玉へ。産れん子は君に似て黒き瞳子《ひとみ》をや持ちたらん。この瞳子。嗚呼、夢にのみ見しは君が黒き瞳子なり。産れたらん日には君が正しき心にて、よもあだし
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