名をばなのらせ玉はじ。」彼は頭を垂れたり。「穉しと笑ひ玉はんが、寺に入らん日はいかに嬉しからまし。」見上げたる目には涙滿ちたり。
 二三日の間は大臣をも、たびの疲れやおはさんとて敢て訪《とぶ》らはず、家にのみ籠り居しが、或る日の夕暮使して招かれぬ。往きて見れば待遇殊にめでたく、魯西亞行の勞を問ひ慰めて後、われと共に東にかへる心なきか、君が學問こそわが測り知る所ならね、語學のみにて世の用には足りなむ、滯留の餘りに久しければ、樣々の係累もやあらんと、相澤に問ひしに、さることなしと聞きて落居たりと宣ふ。其氣色辭むべくもあらず。あなやと思ひしが、流石に相澤の言を僞なりともいひ難きに、若しこの手にしも縋らずば、本國をも失ひ、名譽を挽きかへさん道をも絶ち、身はこの廣漠たる歐洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起れり。嗚呼、何等の特操なき心ぞ、「承はり侍り」と應へたるは。
 黒がねの額《ぬか》はありとも、歸りてエリスに何とかいはん。「ホテル」を出でしときの我心の錯亂は、譬へんに物なかりき。余は道の東西をも分かず、思に沈みて行く程に、往きあふ馬車の馭丁に幾度か叱せられ、驚きて飛びのきつ。暫
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