或る日伯は突然われに向ひて、「余は明旦、魯西亞《ロシア》に向ひて出發すべし。隨ひて來べきか、」と問ふ。余は數日間、かの公務に遑なき相澤を見ざりしかば、此問は不意に余を驚かしつ。「いかで命に從はざらむ。」余は我耻を表はさん。此答はいち早く決斷して言ひしにあらず。余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟の間、其答の範圍を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひし上にて、其爲し難きに心づきても、強て當時の心虚なりしを掩ひ隱し、耐忍してこれを實行すること屡※[#二の字点、1−2−22]なり。
 この日は飜譯の代《しろ》に、旅費さへ添へて賜はりしを持て歸りて、飜譯の代をばエリスに預けつ。これにて魯西亞より歸り來んまでの費《つひえ》をば支へつべし。彼は醫者に見せしに常ならぬ身なりといふ。貧血の性なりしゆゑ、幾月か心づかでありけん。座頭よりは休むことのあまりに久しければ籍を除きぬと言ひおこせつ。まだ一月ばかりなるに、かく嚴しきは故あればなるべし。旅立の事にはいたく心を惱ますとも見えず。僞りなき我心を厚く信じたれば。
 鐵路にては遠くもあらぬ旅なれば、用意とて
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