もなし。身に合せて借りたる黒き禮服、新に買求めたるゴタ板の魯廷《ろてい》の貴族譜、二三種の辭書などを、小「カバン」に入れたるのみ。流石に心細きことのみ多きこの程なれば、出で行く跡に殘らんも物憂かるべく、又停車場にて涙こぼしなどしたらんには影護《うしろめた》かるべければとて、翌朝早くエリスをば母につけて知る人がり出しやりつ。余は旅裝整へて戸を鎖し、鍵をば入口に住む靴屋の主人に預けて出でぬ。
魯國行につきては、何事をか敍すべき。わが舌人たる任務は忽地に余を拉し去りて、青雲の上に墮したり。余が大臣の一行に隨ひて、ペエテルブルクに在りし間に余を圍繞《ゐねう》せしは、巴里絶頂の驕奢を、氷雪の裡に移したる王城の粧飾、故《ことさ》らに黄蝋の燭を幾つ共なく點したるに、幾星の勳章、幾枝の「エポレツト」が映射する光、彫鏤の工《たくみ》を盡したる「カミン」の火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇の閃きなどにて、この間佛蘭西語を最も圓滑に使ふものはわれなるがゆゑに、賓主の間に周旋して事を辨ずるものもまた多くは余なりき。
この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日毎に書を寄せしかばえ忘れざりき。余が立ちし日には、いつに
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