を望む如きは、相澤が余に示したる前途の方鍼《ほうしん》なり。されどこの山は猶ほ重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果して往きつきぬとも、我中心に滿足を與へんも定かならず。貧きが中にも樂しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛。わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、姑《しばら》く友の言に從ひて、この情縁を斷たんと約しき。余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵《かうてい》すれども、友に對して否とはえ對へぬが常なり。
別れて出づれば風面を撲てり。二重の玻璃※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]《ガラスまど》を緊《きび》しく鎖して、大いなる陶爐に火を焚きたる「ホテル」の食堂を出でしなれば、薄き外套を透る午後四時の寒さは殊さらに堪へ難く、膚《はだへ》粟立つと共に、余は心の中に一種の寒さを覺えき。
飜譯は一夜になし果てつ。「カイゼルホオフ」へ通ふことはこれより漸く繁くなりもて行く程に、初めは伯の言葉も用事のみなりしが、後には近比《ちかごろ》故郷にてありしことなどを擧げて余が意見を問ひ、折に觸れては道中にて人々の失錯ありしことどもを告げて打笑ひ玉ひき。
一月ばかり過ぎて、
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