り。室を温め、竈に火を焚きつけても、壁の石を徹し、衣の綿を穿つ北歐羅巴の寒さは、なか/\に堪へがたかり。エリスは二三日前の夜、舞臺にて卒倒しつとて、人に扶けられて歸り來しが、それより心地あしとて休み、もの食ふごとに吐くを、惡阻《つはり》といふものならんと始めて心づきしは母なりき。嗚呼、さらぬだに覺束なきは我身の行末なるに、若し眞なりせばいかにせまし。
 今朝は日曜なれば家に在れど、心は樂しからず。エリスは床に臥すほどにはあらねど、小き鐵爐の畔に椅子さし寄せて言葉|寡《すくな》し。この時戸口に人の聲して、程なく庖厨にありしエリスが母は、郵便の書状を持て來て余にわたしつ。見れば見覺えある相澤が手なるに、郵便切手は普魯西のものにて、消印には伯林とあり。訝りつゝも披《ひら》きて讀めば、とみの事にて預め知らするに由なかりしが、昨夜こゝに着せられし天方大臣に附きてわれも來たり。伯の汝を見まほしとのたまふに疾く來よ。汝が名譽を恢復するも此時にあるべきぞ。心のみ急がれて用事をのみいひ遣るとなり。讀み畢りて茫然たる面もちを見て、エリス云ふ。「故郷よりの文なりや。惡しき便にてはよも。」彼は例の新聞社の報酬
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