てこれと遊ばん勇気なし。此等の勇気なければ、彼活溌なる同郷の人々と交らんやうもなし。この交際の疎《うと》きがために、彼人々は唯余を嘲り、余を嫉むのみならで、又余を猜疑することゝなりぬ。これぞ余が冤罪《ゑんざい》を身に負ひて、暫時の間に無量の艱難《かんなん》を閲《けみ》し尽す媒《なかだち》なりける。
 或る日の夕暮なりしが、余は獣苑を漫歩して、ウンテル、デン、リンデンを過ぎ、我がモンビシユウ街の僑居《けうきよ》に帰らんと、クロステル巷《かう》の古寺の前に来ぬ。余は彼の燈火《ともしび》の海を渡り来て、この狭く薄暗き巷《こうぢ》に入り、楼上の木欄《おばしま》に干したる敷布、襦袢《はだぎ》などまだ取入れぬ人家、頬髭長き猶太《ユダヤ》教徒の翁《おきな》が戸前《こぜん》に佇《たゝず》みたる居酒屋、一つの梯《はしご》は直ちに楼《たかどの》に達し、他の梯は窖《あなぐら》住まひの鍛冶《かぢ》が家に通じたる貸家などに向ひて、凹字《あふじ》の形に引籠みて立てられたる、此三百年前の遺跡を望む毎に、心の恍惚となりて暫し佇みしこと幾度なるを知らず。
 今この処を過ぎんとするとき、鎖《とざ》したる寺門の扉に倚りて、
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