漸く蔗《しよ》を嚼《か》む境に入りぬ。
 官長はもと心のまゝに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。独立の思想を懐《いだ》きて、人なみならぬ面《おも》もちしたる男をいかでか喜ぶべき。危きは余が当時の地位なりけり。されどこれのみにては、なほ我地位を覆《くつが》へすに足らざりけんを、日比《ひごろ》伯林《ベルリン》の留学生の中《うち》にて、或る勢力ある一群《ひとむれ》と余との間に、面白からぬ関係ありて、彼人々は余を猜疑《さいぎ》し、又|遂《つひ》に余を讒誣《ざんぶ》するに至りぬ。されどこれとても其故なくてやは。
 彼人々は余が倶《とも》に麦酒《ビイル》の杯をも挙げず、球突きの棒《キユウ》をも取らぬを、かたくななる心と慾を制する力とに帰して、且《かつ》は嘲《あざけ》り且は嫉《ねた》みたりけん。されどこは余を知らねばなり。嗚呼、此故よしは、我身だに知らざりしを、怎《いか》でか人に知らるべき。わが心はかの合歓《ねむ》といふ木の葉に似て、物|触《さや》れば縮みて避けんとす。我心は処女に似たり。余が幼き頃より長者の教を守りて、学《まなび》の道をたどりしも、仕《つかへ》の道をあゆみしも、皆な勇気ありて
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