き給金を析《さ》きて還し参らせん。縦令《よしや》我身は食《くら》はずとも。それもならずば母の言葉に。」彼は涙ぐみて身をふるはせたり。その見上げたる目《まみ》には、人に否《いな》とはいはせぬ媚態あり。この目の働きは知りてするにや、又自らは知らぬにや。
我が隠しには二三「マルク」の銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば、余は時計をはづして机の上に置きぬ。「これにて一時の急を凌《しの》ぎ玉へ。質屋の使のモンビシユウ街三番地にて太田と尋ね来《こ》ん折には価を取らすべきに。」
少女は驚き感ぜしさま見えて、余が辞別《わかれ》のために出《いだ》したる手を唇にあてたるが、はら/\と落つる熱き涙《なんだ》を我手の背《そびら》に濺《そゝ》ぎつ。
嗚呼、何等の悪因ぞ。この恩を謝せんとて、自ら我|僑居《けうきよ》に来《こ》し少女は、シヨオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、終日《ひねもす》兀坐《こつざ》する我読書の※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]下《さうか》に、一輪の名花を咲かせてけり。この時を始として、余と少女との交《まじはり》漸く繁くなりもて行きて、同郷人にさへ知られぬれば、彼等は速
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