に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日《けふ》になりておもへば、穉《をさな》き思想、身の程《ほど》知らぬ放言、さらぬも尋常《よのつね》の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげにしるしゝを、心ある人はいかにか見けむ。こたびは途に上りしとき、日記《にき》ものせむとて買ひし冊子《さつし》もまだ白紙のまゝなるは、独逸《ドイツ》にて物学びせし間《ま》に、一種の「ニル、アドミラリイ」の気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。
 げに東《ひんがし》に還《かへ》る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそ猶《なほ》心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ変り易きをも悟り得たり。きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感触を、筆に写して誰《たれ》にか見せむ。これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。
 嗚呼《あゝ》、ブリンヂイシイの港を出《い》でゝより、早や二十日《はつか》あまりを経ぬ。世の常ならば生面《せいめん》の客にさへ交《まじはり》を結びて、旅の憂さを慰めあふが航海の習《ならひ》なるに、微恙《びやう》にこ
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