つ。まだ一月ばかりなるに、かく厳しきは故あればなるべし。旅立の事にはいたく心を悩ますとも見えず。偽りなき我心を厚く信じたれば。
 鉄路にては遠くもあらぬ旅なれば、用意とてもなし。身に合せて借りたる黒き礼服、新に買求めたるゴタ板の魯廷《ろてい》の貴族譜、二三種の辞書などを、小「カバン」に入れたるのみ。流石に心細きことのみ多きこの程なれば、出で行く跡に残らんも物憂かるべく、又停車場にて涙こぼしなどしたらんには影護《うしろめた》かるべければとて、翌朝早くエリスをば母につけて知る人がり出《いだ》しやりつ。余は旅装整へて戸を鎖し、鍵をば入口に住む靴屋の主人に預けて出でぬ。
 魯国行につきては、何事をか叙すべき。わが舌人《ぜつじん》たる任務《つとめ》は忽地《たちまち》に余を拉《らつ》し去りて、青雲の上に堕《おと》したり。余が大臣の一行に随ひて、ペエテルブルクに在りし間に余を囲繞《ゐねう》せしは、巴里絶頂の驕奢《けうしや》を、氷雪の裡《うち》に移したる王城の粧飾《さうしよく》、故《ことさ》らに黄蝋《わうらふ》の燭《しよく》を幾つ共なく点《とも》したるに、幾星の勲章、幾枝の「エポレツト」が映射する光、彫鏤《てうる》の工《たくみ》を尽したる「カミン」の火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇の閃きなどにて、この間仏蘭西語を最も円滑に使ふものはわれなるがゆゑに、賓主の間に周旋して事を弁ずるものもまた多くは余なりき。
 この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日毎に書《ふみ》を寄せしかばえ忘れざりき。余が立ちし日には、いつになく独りにて燈火に向はん事の心憂さに、知る人の許《もと》にて夜に入るまでもの語りし、疲るゝを待ちて家に還り、直ちにいねつ。次の朝《あした》目醒めし時は、猶独り跡に残りしことを夢にはあらずやと思ひぬ。起き出でし時の心細さ、かゝる思ひをば、生計《たつき》に苦みて、けふの日の食なかりし折にもせざりき。これ彼が第一の書の略《あらまし》なり。
 又程経てのふみは頗る思ひせまりて書きたる如くなりき。文をば否といふ字にて起したり。否、君を思ふ心の深き底《そこひ》をば今ぞ知りぬる。君は故里《ふるさと》に頼もしき族《やから》なしとのたまへば、此地に善き世渡のたつきあらば、留り玉はぬことやはある。又我愛もて繋ぎ留めでは止《や》まじ。それも※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《か
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