な》はで東《ひんがし》に還り玉はんとならば、親と共に往かんは易けれど、か程に多き路用を何処《いづく》よりか得ん。怎《いか》なる業をなしても此地に留りて、君が世に出で玉はん日をこそ待ためと常には思ひしが、暫しの旅とて立出で玉ひしより此二十日ばかり、別離の思は日にけに茂りゆくのみ。袂《たもと》を分つはたゞ一瞬の苦艱《くげん》なりと思ひしは迷なりけり。我身の常ならぬが漸くにしるくなれる、それさへあるに、縦令《よしや》いかなることありとも、我をば努《ゆめ》な棄て玉ひそ。母とはいたく争ひぬ。されど我身の過ぎし頃には似で思ひ定めたるを見て心折れぬ。わが東《ひんがし》に往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいふなる。書きおくり玉ひし如く、大臣の君に重く用ゐられ玉はゞ、我路用の金は兎も角もなりなん。今は只管《ひたすら》君がベルリンにかへり玉はん日を待つのみ。
 嗚呼、余は此書を見て始めて我地位を明視し得たり。恥かしきはわが鈍《にぶ》き心なり。余は我身一つの進退につきても、また我身に係らぬ他人《ひと》の事につきても、決断ありと自ら心に誇りしが、此決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との関係を照さんとするときは、頼みし胸中の鏡は曇りたり。
 大臣は既に我に厚し。されどわが近眼は唯だおのれが尽したる職分をのみ見き。余はこれに未来の望を繋ぐことには、神も知るらむ、絶えて想《おもひ》到らざりき。されど今こゝに心づきて、我心は猶ほ冷然たりし歟《か》。先に友の勧めしときは、大臣の信用は屋上の禽《とり》の如くなりしが、今は稍※[#二の字点、1−2−22]《やゝ》これを得たるかと思はるゝに、相沢がこの頃の言葉の端に、本国に帰りて後も倶にかくてあらば云々《しか/″\》といひしは、大臣のかく宣《のたま》ひしを、友ながらも公事なれば明には告げざりし歟。今更おもへば、余が軽卒にも彼に向ひてエリスとの関係を絶たんといひしを、早く大臣に告げやしけん。
 嗚呼、独逸に来し初に、自ら我本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥の暫し羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。足の糸は解くに由なし。曩《さき》にこれを繰《あや》つりしは、我《わが》某《なにがし》省の官長にて、今はこの糸、あなあはれ、天方伯の手中に在り。余が大臣の一行と倶
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