《こと》のおほむねなりき。
 大洋に舵《かぢ》を失ひしふな人が、遙《はるか》なる山を望む如きは、相沢が余に示したる前途の方鍼《はうしん》なり。されどこの山は猶ほ重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果して往きつきぬとも、我中心に満足を与へんも定かならず。貧きが中にも楽しきは今の生活《なりはひ》、棄て難きはエリスが愛。わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、姑《しばら》く友の言《こと》に従ひて、この情縁を断たんと約しき。余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵すれども、友に対して否とはえ対《こた》へぬが常なり。
 別れて出づれば風|面《おもて》を撲《う》てり。二重《ふたへ》の玻璃《ガラス》※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]を緊しく鎖して、大いなる陶炉に火を焚きたる「ホテル」の食堂を出でしなれば、薄き外套を透る午後四時の寒さは殊さらに堪へ難く、膚《はだへ》粟立《あはだ》つと共に、余は心の中に一種の寒さを覚えき。
 飜訳は一夜になし果てつ。「カイゼルホオフ」へ通ふことはこれより漸く繁くなりもて行く程に、初めは伯の言葉も用事のみなりしが、後には近比《ちかごろ》故郷にてありしことなどを挙げて余が意見を問ひ、折に触れては道中にて人々の失錯ありしことどもを告げて打笑ひ玉ひき。
 一月ばかり過ぎて、或る日伯は突然われに向ひて、「余は明旦《あす》、魯西亜《ロシア》に向ひて出発すべし。随《したが》ひて来《く》べきか、」と問ふ。余は数日間、かの公務に遑なき相沢を見ざりしかば、此問は不意に余を驚かしつ。「いかで命に従はざらむ。」余は我恥を表はさん。此答はいち早く決断して言ひしにあらず。余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟《とつさ》の間《かん》、その答の範囲を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひし上にて、その為《な》し難きに心づきても、強《しひ》て当時の心虚なりしを掩ひ隠し、耐忍してこれを実行すること屡々なり。
 此日は飜訳の代《しろ》に、旅費さへ添へて賜《たま》はりしを持て帰りて、飜訳の代をばエリスに預けつ。これにて魯西亜より帰り来んまでの費《つひえ》をば支へつべし。彼は医者に見せしに常ならぬ身なりといふ。貧血の性《さが》なりしゆゑ、幾月か心づかでありけん。座頭よりは休むことのあまりに久しければ籍を除きぬと言ひおこせ
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