ったら、是非お目にかかりたいというの」
「まっぴらだ」
「大丈夫よ。まだお金はたくさんあるのだから」
「たくさんあったって、使えばなくなるだろう。これからどうするのだ」
「アメリカへ行くの。日本は駄目《だめ》だって、ウラヂオで聞いて来たのだから、あてにはしなくってよ」
「それがいい。ロシアの次はアメリカがよかろう。日本はまだそんなに進んでいないからなあ。日本はまだ普請中だ」
「あら。そんなことをおっしゃると、日本の紳士がこういったと、アメリカで話してよ。日本の官吏がといいましょうか。あなた官吏でしょう」
「うむ。官吏だ」
「お行儀がよくって」
「おそろしくいい。本当のフィリステルになりすましている。きょうの晩飯だけが破格なのだ」
「ありがたいわ」さっきから幾つかのボタンをはずしていた手袋をぬいで、卓越しに右の平手を出すのである。渡辺は真面目《まじめ》にその手をしっかり握った。手は冷たい。そしてその冷たい手が離れずにいて、暈《くま》のできたために一倍大きくなったような目が、じっと渡辺の顔に注がれた。
「キスをして上げてもよくって」
 渡辺はわざとらしく顔をしかめた。「ここは日本だ」
 た
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