、おもちゃのような蝙蝠傘《こうもりがさ》を持っている。渡辺は無意識に微笑をよそおってソファから起きあがって、葉巻を灰皿に投げた。女は、附いて来て戸口に立ちどまっている給仕をちょっと見返って、その目を渡辺に移した。ブリュネットの女の、褐色《かっしょく》の、大きい目である。この目は昔たびたび見たことのある目である。しかしそのふちにある、指の幅ほどな紫がかった濃い暈《かさ》は、昔なかったのである。
「長く待たせて」
 ドイツ語である。ぞんざいなことばと不吊合《ふつりあ》いに、傘を左の手に持ちかえて、おうように手袋に包んだ右の手の指さきをさしのべた。渡辺は、女が給仕の前で芝居をするなと思いながら、丁寧にその指さきをつまんだ。そして給仕にこういった。
「食事のいいときはそういってくれ」
 給仕は引っ込んだ。
 女は傘を無造作にソファの上に投げて、さも疲れたようにソファへ腰を落して、卓に両肘《りょうひじ》をついて、だまって渡辺の顔を見ている。渡辺は卓のそばへ椅子を引き寄せてすわった。しばらくして女がいった。
「たいそう寂しいうちね」
「普請中なのだ。さっきまで恐ろしい音をさせていたのだ」
「そう。
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