し窮屈だろうと思われる、ちょうどよい室である。
 渡辺はやや満足してサロンへ帰った。給仕が食事の室からすぐに勝手の方へ行ったので、渡辺ははじめてひとりになったのである。
 金槌《かなづち》や手斧の音がぱったりやんだ。時計を出して見れば、なるほど五時になっている。約束の時刻までには、まだ三十分あると思いながら、小さい卓の上に封を切って出してある箱の葉巻を一本取って、さきを切って火をつけた。
 不思議なことには、渡辺は人を待っているという心持が少しもしない。その待っている人が誰であろうと、ほとんどかまわないくらいである。あの花籠の向うにどんな顔が現れて来ようとも、ほとんどかまわないくらいである。渡辺はなぜこんな冷澹《れいたん》な心持になっていられるかと、みずから疑うのである。
 渡辺は葉巻の煙をゆるく吹きながら、ソファの角のところの窓をあけて、外を眺めた。窓のすぐ下には材木がたくさん立てならべてある。ここが表口になるらしい。動くとも見えない水をたたえたカナルをへだてて、向う側の人家が見える。多分待合かなにかであろう。往来はほとんど絶えていて、その家の門に子を負うた女が一人ぼんやりたたずんで
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