いる。右のはずれの方には幅広く視野をさえぎって、海軍参考館の赤煉瓦《あかれんが》がいかめしく立ちはだかっている。
渡辺はソファに腰をかけて、サロンの中を見廻した。壁のところどころには、偶然ここで落ち合ったというような掛け物が幾つもかけてある。梅に鶯《うぐいす》やら、浦島が子やら、鷹《たか》やら、どれもどれも小さい丈《たけ》の短い幅《ふく》なので、天井の高い壁にかけられたのが、尻《しり》を端折《はしょ》ったように見える。食卓のこしらえてある室の入口を挾んで、聯《れん》のような物のかけてあるのを見れば、某大教正の書いた神代文字《じんだいもじ》というものである。日本は芸術の国ではない。
渡辺はしばらくなにを思うともなく、なにを見聞くともなく、ただ煙草《たばこ》をのんで、体の快感を覚えていた。
廊下に足音と話し声とがする。戸が開く。渡辺の待っていた人が来たのである。麦藁《むぎわら》の大きいアンヌマリイ帽に、珠数《じゅず》飾りをしたのをかぶっている。鼠色《ねずみいろ》の長い着物式の上衣の胸から、刺繍《ししゅう》をした白いバチストが見えている。ジュポンも同じ鼠色である。手にはウォランのついた、おもちゃのような蝙蝠傘《こうもりがさ》を持っている。渡辺は無意識に微笑をよそおってソファから起きあがって、葉巻を灰皿に投げた。女は、附いて来て戸口に立ちどまっている給仕をちょっと見返って、その目を渡辺に移した。ブリュネットの女の、褐色《かっしょく》の、大きい目である。この目は昔たびたび見たことのある目である。しかしそのふちにある、指の幅ほどな紫がかった濃い暈《かさ》は、昔なかったのである。
「長く待たせて」
ドイツ語である。ぞんざいなことばと不吊合《ふつりあ》いに、傘を左の手に持ちかえて、おうように手袋に包んだ右の手の指さきをさしのべた。渡辺は、女が給仕の前で芝居をするなと思いながら、丁寧にその指さきをつまんだ。そして給仕にこういった。
「食事のいいときはそういってくれ」
給仕は引っ込んだ。
女は傘を無造作にソファの上に投げて、さも疲れたようにソファへ腰を落して、卓に両肘《りょうひじ》をついて、だまって渡辺の顔を見ている。渡辺は卓のそばへ椅子を引き寄せてすわった。しばらくして女がいった。
「たいそう寂しいうちね」
「普請中なのだ。さっきまで恐ろしい音をさせていたのだ」
「そう。
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