ろう。この辺まで入り込んでみれば、ますます釘《くぎ》を打つ音や手斧《ちょうな》をかける音が聞えてくるのである。
 梯子を登るあとから給仕がついて来た。どの室かと迷って、うしろをふりかえりながら、渡辺はこういった。
「だいぶにぎやかな音がするね」
「いえ。五時には職人が帰ってしまいますから、お食事中騒々しいようなことはございません。しばらくこちらで」
 さきへ駈け抜けて、東向きの室の戸をあけた。はいってみると、二人の客を通すには、ちと大きすぎるサロンである。三所に小さい卓がおいてあって、どれをも四つ五つずつ椅子《いす》が取り巻いている。東の右の窓の下にソファもある。そのそばには、高さ三尺ばかりの葡萄《ぶどう》に、暖室で大きい実をならせた盆栽がすえてある。
 渡辺があちこち見廻していると、戸口に立ちどまっていた給仕が、「お食事はこちらで」といって、左側の戸をあけた。これはちょうどよい室である。もうちゃんと食卓がこしらえて、アザレエやロドダンドロンを美しく組み合せた盛花《もりばな》の籠《かご》を真中にして、クウウェエルが二つ向き合せておいてある。いま二人くらいははいられよう、六人になったら少し窮屈だろうと思われる、ちょうどよい室である。
 渡辺はやや満足してサロンへ帰った。給仕が食事の室からすぐに勝手の方へ行ったので、渡辺ははじめてひとりになったのである。
 金槌《かなづち》や手斧の音がぱったりやんだ。時計を出して見れば、なるほど五時になっている。約束の時刻までには、まだ三十分あると思いながら、小さい卓の上に封を切って出してある箱の葉巻を一本取って、さきを切って火をつけた。
 不思議なことには、渡辺は人を待っているという心持が少しもしない。その待っている人が誰であろうと、ほとんどかまわないくらいである。あの花籠の向うにどんな顔が現れて来ようとも、ほとんどかまわないくらいである。渡辺はなぜこんな冷澹《れいたん》な心持になっていられるかと、みずから疑うのである。
 渡辺は葉巻の煙をゆるく吹きながら、ソファの角のところの窓をあけて、外を眺めた。窓のすぐ下には材木がたくさん立てならべてある。ここが表口になるらしい。動くとも見えない水をたたえたカナルをへだてて、向う側の人家が見える。多分待合かなにかであろう。往来はほとんど絶えていて、その家の門に子を負うた女が一人ぼんやりたたずんで
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