普請中
森鴎外
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)木挽町《こびきちょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ]明治四十三年六月
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渡辺参事官は歌舞伎座の前で電車を降りた。
雨あがりの道の、ところどころに残っている水たまりを避けて、木挽町《こびきちょう》の河岸《かし》を、逓信省の方へ行きながら、たしかこの辺の曲がり角に看板のあるのを見たはずだがと思いながら行く。
人通りはあまりない。役所帰りらしい洋服の男五六人のがやがや話しながら行くのにあった。それから半衿《はんえり》のかかった着物を着た、お茶屋のねえさんらしいのが、なにか近所へ用たしにでも出たのか、小走りにすれ違った。まだ幌《ほろ》をかけたままの人力車が一台あとから駈け抜けて行った。
果して精養軒ホテルと横に書いた、わりに小さい看板が見つかった。
河岸通りに向いた方は板囲いになっていて、横町に向いた寂しい側面に、左右から横に登るようにできている階段がある。階段はさきを切った三角形になっていて、そのさきを切ったところに戸口が二つある。渡辺はどれからはいるのかと迷いながら、階段を登ってみると、左の方の戸口に入口と書いてある。
靴《くつ》がだいぶ泥になっているので、丁寧に掃除をして、硝子《ガラス》戸をあけてはいった。中は広い廊下のような板敷で、ここには外にあるのと同じような、棕櫚《しゅろ》の靴《くつ》ぬぐいのそばに雑巾《ぞうきん》がひろげておいてある。渡辺は、おれのようなきたない靴をはいて来る人がほかにもあるとみえると思いながら、また靴を掃除した。
あたりはひっそりとして人気《ひとけ》がない。ただ少しへだたったところから騒がしい物音がするばかりである。大工がはいっているらしい物音である。外に板囲いのしてあるのを思い合せて、普請《ふしん》最中だなと思う。
誰《たれ》も出迎える者がないので、真直《まっす》ぐに歩いて、つき当って、右へ行こうか左へ行こうかと考えていると、やっとのことで、給仕らしい男のうろついているのに、出合った。
「きのう電話で頼んでおいたのだがね」
「は。お二人さんですか。どうぞお二階へ」
右の方へ登る梯子《はしご》を教えてくれた。すぐに二人前の注文をした客とわかったのは普請中ほとんど休業同様にしているからであ
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