なんだか気が落ち着かないようなところね。どうせいつだって気の落ち着くような身の上ではないのだけど」
「いったいいつどうして来たのだ」
「おとつい来て、きのうあなたにお目にかかったのだわ」
「どうして来たのだ」
「去年の暮からウラヂオストックにいたの」
「それじゃあ、あのホテルの中にある舞台でやっていたのか」
「そうなの」
「まさか一人じゃああるまい。組合か」
「組合じゃないが、一人でもないの。あなたもご承知の人が一しょなの」少しためらって。「コジンスキイが一しょなの」
「あのポラックかい。それじゃあお前はコジンスカアなのだな」
「いやだわ。わたしが歌って、コジンスキイが伴奏をするだけだわ」
「それだけではあるまい」
「そりゃあ、二人きりで旅をするのですもの。まるっきりなしというわけにはいきませんわ」
「知れたことさ。そこで東京へも連れて来ているのかい」
「ええ。一しょに愛宕山《あたごやま》に泊まっているの」
「よく放して出すなあ」
「伴奏させるのは歌だけなの」Begleiten《ベグライテン》 ということばを使ったのである。伴奏ともなれば同行ともなる。「銀座であなたにお目にかかったといったら、是非お目にかかりたいというの」
「まっぴらだ」
「大丈夫よ。まだお金はたくさんあるのだから」
「たくさんあったって、使えばなくなるだろう。これからどうするのだ」
「アメリカへ行くの。日本は駄目《だめ》だって、ウラヂオで聞いて来たのだから、あてにはしなくってよ」
「それがいい。ロシアの次はアメリカがよかろう。日本はまだそんなに進んでいないからなあ。日本はまだ普請中だ」
「あら。そんなことをおっしゃると、日本の紳士がこういったと、アメリカで話してよ。日本の官吏がといいましょうか。あなた官吏でしょう」
「うむ。官吏だ」
「お行儀がよくって」
「おそろしくいい。本当のフィリステルになりすましている。きょうの晩飯だけが破格なのだ」
「ありがたいわ」さっきから幾つかのボタンをはずしていた手袋をぬいで、卓越しに右の平手を出すのである。渡辺は真面目《まじめ》にその手をしっかり握った。手は冷たい。そしてその冷たい手が離れずにいて、暈《くま》のできたために一倍大きくなったような目が、じっと渡辺の顔に注がれた。
「キスをして上げてもよくって」
渡辺はわざとらしく顔をしかめた。「ここは日本だ」
た
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