無い奴だ」と叫んだ。
押丁共がツァウォツキイの肩先を掴まえて引き摩って行った。
ツァウォツキイは胸に小刀を挿していながら、押丁どもを馬鹿にして、「犬め、極卒め、カザアキめ」と罵った。
押丁共は返事の代りに足でツァウォツキイを蹴った。その時胸から小刀が抜けてはならないので、一人の押丁が柄を押さえていた。
二
ツァウォツキイは十六年間浄火の中にいた。浄火と云うものは燃えているものだと云うのは、大の虚報である。浄火は本当の火ではない。極明るい、薔薇色の光線である。人間を長い間その中に据わらせておいて、悪い性質を抜け出させるのである。
ツァウォツキイはだんだん光線に慣れて来て、自分の体の中が次第に浄くなるように感じた。心の臓も浄くなったので、いろんな事を思い出して、そして生れたと云うばかりで、男の子だか女の子だか知らない子を、どうかして見たいものだと思った。
浄火の中を巡って歩いて、何か押丁に対する不平があるなら言えという役人がある。ある時その役人に、ツァウォツキイが言った。「ちょっと伺いますが、娑婆で忘れて来た事をしに行くのに、一日だけお暇が貰えると云うことでしたね
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