。」
 或る日編輯長がプラトンの事務室に、慌たゞしく這入つて来て、非常に不平な様子で、議論をし掛けた。
「あんまりひどいぢやありませんか。どう云ふお考だか、わたくしには丸で分かりませんなあ。なぜあの排水工事の記事をお削りになつたのです。」
 此記事が削除せられたには、決して理由がないことはなかつた。それはかうである。先頃新聞に市の経理の記事が出た。プラトンが検閲して通過させたのである。ところが、その中に市の経理の失体を指※[#「てへん+適」、第4水準2−13−57]してゐて、それが誤謬の事実に本づいた立論であつた。そこで市長が、自分を侮辱したものと認めて、長官に訴へた。長官はプラトンを呼んで譴責した。「どうも個人攻撃を遣らせては行かんなあ。あんな当てこすりをするといふことがあるものか。君は読んで見て分からんのか。それでは見ても見ないでも」云々と云ふ小言であつた。それからと云ふものは、プラトンは一しよう懸命に「個人攻撃」を通過させまいと努めてゐる。併しどこまでが言論の自由で、どこからが個人攻撃になると云ふ境界を極めるのが、むづかしくてならないのである。そこでプラトンは編輯長にかう云つた。
「どうも市長の事のある記事は通過させられないのです。侮辱だと云はれますからなあ。こつちがひどい目に逢ふです。いつかもあなたに話した筈ですが。」
「でも此記事には少しも市長を侮辱してゐる処はないぢやありませんか。排水工事の事が言つてある丈で。」
「一体排水工事とはどんな物ですかねえ。」かう云つて、記事を朗読し出した。市内が一般に不潔である。汚物が堆積して、土地に浸潤する。死亡比例が高い。ざつとこんな事が書いてあつて、その結論として、久しく委員の手に附托せられた儘になつてゐる排水工事案を解決して貰ひたいと云つてゐる。朗読を聞いてゐた編輯長が云つた。
「皆事実ぢやありませんか。」
「いゝ、え。事実でないです。」プラトンは臆病な心から、こんな記事を見ると、お上に対して喧嘩を買ふのだ、虚偽の事を書いて、其喧嘩の種にするのだとしか思はれなくなつてゐるのである。プラトンが為めには、市は外の市より清潔で、伝染病の巣窟ではないのである。
「いや。どうもいたし方がありません。其筋へお話をしませう。あまりひどいですから。」
「そんなら御勝手に。」
 編輯長は冷淡に会釈をして、原稿を引つ攫んで行つてしまつた。一時間半程立つと、又非常に不平らしい顔をして、急いで這入つて来た。
「今市長の処へ行つて、全文を読んで貰つたのです。侮辱なんぞにはなつてゐないと云ふのです。これここに、差支なしと書いて貰つて来たですが。」
「市長が差支なくても、わたくしが差支があるです。」プラトンは強情にかう答へた。編輯長は又原稿を引つ掴んで行つた。それから二十分程立つと、電話がちりん/\と鳴つた。
「どなたですか。」
「知事だがなあ。なぜ排水工事の記事を削除するのか。」
 プラトンの顔は真つ赤になつた。そして目をきよろ/\させて、救を求めるやうに、あたりを見廻した。それから間もなく真つ蒼になつた。そして先頃宴会で胴上げをせられた跡でしたやうな手附きをした。
「どうも、その、市の事があまり悪く書き過ぎてありますので。」微かな、不慥かな声である。
「なに。ちつとも聞えない。なーぜーはーいーすーゐーこーうーじーのーきーじーをーつーうーくわーさーせーなーいーかーと云ふのだがなあ。」
「余り悪く、実際より悪く書いてありますから。」
「なに。もつと大きな声で言はんか。」
 プラトンは前の詞を今一度繰り返した。そして長官の返事を待つてゐる。受話器を持つてゐる手は震える。鼻の頭には大きな汗の玉が出てゐる。顔の表情には非常な恐怖が見えてゐる。長官はなんと云つたか知らないが、定めてひどく恐れ入らせられたことであらう。受話器を鉤に掛けた時には、常のやうに椅子へ復《かへ》ることが出来ないで、重い荷を負《しよ》はせられて、力の抜けた人のやうに、椅子の上に倒れた。そして目を瞑《ねむ》つて、長い間ぢつとしてゐた。只受話器を持つた左の手がぶる/\慄えてゐる。そして右の目の筋肉が痙攣を起してゐる。
 プラトンは水を一ぱい飲んだ。併し全身の疲労と不安とは恢復しない。脈が結代《けつたい》する。外貌は定めて余程あぶなく見えたであらう。その室に這入つて来た下級参事官は、もう此人も長くはない。此位置が明くなと思つたさうである。どうも気分が悪くて事務が執れないと云つて、辻馬車に乗つて帰つた。午食《ひるめし》は食べたくないと云つて食はなかつた。晩方印刷所から校正刷を持つた小僧が来た時には、プラトンは少しも見ずに、どの紙にも認可と書いて渡した。そして夫人にかう云つた。
「グラツシヤアや。どうも己はもう駄目らしいよ。」
 電話の鈴《りん》が鳴る度
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