に、プラトンは全身を震はせて、一種の恐怖が熱いものゝやうに心の臓に迫つて来るのを感じた。そして床に起き直つて耳を欹《そばだ》てゝ聞いてゐる。毒々しい声が「なぜ通過させないのだ」「どうして通過させないのだ」と云ふやうに思はれる。それから人事不省になつてゐると、誰やら受話器を持つて来て、無理に耳へ押し当てる。さうすると、こん度は意地の悪い外国通信記者の声がする。これは二三日前に会談をしたのである。それがこんな事を囁く。「どうですか。念の為め今一度承知して置きたいのですがな。どうしてもフランスの記事を一切通過させないと仰やるのですか。」とう/\しまひには、平生仲善しの衛生課長が幻のやうに見えて、顔をくしや/\にして叫んでゐる。
「どうも個人攻撃は行かん。我輩の監督してゐる汚物排除は善く行はれてゐるのに、毎号新聞で悪く言つてある。なぜあんな記事を通過させるのですか。どうも其筋へ言はんでは済まされんです。怪しからん。」
そのうち体の中で不思議な感じがした。何物かがちぎれて、ちく/\引き吊つて、ぶる/\震えてゐる。それから傍の卓の上にあるコツプの水を取つて飲まうとすると、右の手が言ふことを聞かなくなつてゐた。丸で手ではなくて外の物のやうであつた。
プラトンはびつくりして、「グラツシヤア」と一声呼んだ。その声が小さくて、咳枯《しやが》れてゐて、別人の声のやうであつた。夫人は隔たつた室にゐたので、此声が聞えなかつた。小さいニノチユカがゴム毬を抱いて走つて来て、すゞしい声で云つた。
「お父うさん。何御用。お母あさんを呼びませうか。」
夫人が室に這入つた時には、プラトンは泣いてゐた。そして左の手と足とが利かなくなつて、右の目が見えなくなつたのを、容易に打ち明けて言はなかつた。
――――――――――――
夫人の話の済んだ時は二時が鳴つてゐた。
「さあ。もうそろ/\行かなくちやあ。」学士がかう云つた。
「もう目を醒ましてゐるかも知れません。ちよつと見てまゐりませう。」夫人は泣き出しさうな声でかう云つて、病室へ行く。
「どれ。行つて見ませう。」学士は夫人の跡に附いて行く。
病室に這入つて見ると、プラトンはぢつとして、両眼を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いて、意味もなく、しかも苦しげに、聖像の方を見詰めてゐた。
底本:「鴎外選集 第15巻」岩波書店
1980(昭和55)年1月22日第1刷発行
初出:「三田文学 二ノ七」
1911(明治44)年7月1日
入力:tatsuki
校正:山根生也
2001年12月15日公開
2006年1月3日修正
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